神の形に造られている私たち人間は、生まれ育った地域や年代が異なってもかなり似通った価値観、道徳観を持っていることは多くの人が認めるところでしょう。モーセの十戒に見られる「汝殺すなかれ」とか「汝むさぼるなかれ」とか「汝偽証するなかれ」などの戒めは古今東西の道徳観に概ね一致します。特に、自分の犠牲をもいとわず他者を愛するという人の思いは崇高な次元の現象と受け止められ、人の心には自身の意図を越えた価値基準が本来的に植え付けられているように感じます。他の動物にも子育ての期間には子供を守り、養育する習性が見受けられますが、これは愛というよりは種の保存本能として備えられているように見受けられます。なぜならば、動物はその養育期間が過ぎると子供をライバルと認識し、群れから追放してします。「愛」という思いは人間に与えられた特有の賜物であると私には思えるのです。ビッグバンによって星が誕生し、水の存在など偶然に環境が整ったところに、アメーバのような単純生命体が自然発生し、進化と突然変異さらに自然淘汰を繰り返す中で、生命体は高級化し人類が育成されてきたと信じて疑わない現代人は多くおられますが、崇高な愛の心を持つ人間が、単なる偶然の産物に過ぎないという考えはあまりに不自然に過ぎ、私にはとても受け入れられません。

人のもつ価値観はあらかじめある方向性をもって植えつけられているのではと感じるのは私だけでしょうか。それをはたして偶然の結果と断じきれるものでしょうか。人は神の意思によって、そのように作られていると考えるのが素直な捉え方ではないかと私は思うのです。

しかし、神の形に作られた人間は、一人々々に与えられた感性を用いて自ら感じ取り、与えられた知性をもって物事を整理して思考し、与えられた自由意志をもって自らの進むべき道を選択することが求められているものですから、人間である自らの存在をどの様に捉え生きてゆくかは正に各自に課せられた問題であり、自由意志によって人生を歩むように造られている人間に、真理はこうであると他者が押し売りすることはできません。ただ、私達クリスチャンは、仲間が集うだけでなく、出て行って「人は神様によって作られ、聖霊に導かれて生きているものだ」という私たちの信仰を伝えることが求められているのではないでしょうか。