第1話の冒頭に上げた聖書の言葉「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」は、復活されたイエスが弟子たちに与えた宣教命令です。続く言葉は「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」となっています。教会内に安住するのではなく“出て行って宣教せよ”、この命令は今日の教会にも引き継がれたものであり、この命令に応えることは、主イエスに出会い、その導きの下に歩もうとする者の務めではないでしょうか。

 

クリスチャンがこの務めを果たすに際して、「私の信仰は絶対に正しいのだから、貴方は私の言うことをそのまま信じなさい。」という強要姿勢は、今の日本人には反発され、拒否されるでしょう。少なからぬ新興宗教はそのような伝道手法をとっており、宗教に対する反感を植え付けてしまっているようです。そのためでもあるのでしょうか、多くの今日のクリスチャンは自らの信仰を他者に語り、伝えることに消極的であるように見受けられます。前述しましたように、神様によってそのように造られていると思うかどうかは別として、そもそも、人は自由意志なるものを備えており、それに基づいて自らの行動を起こしている存在であることは多くの人が認めるところでしょう。とすれば、何を確かなものと信じ、どのような価値観を持って何を重要なものとするかは各自に委ねられた事柄というべきで、信仰は強要すべきものではないというべきでしょう。だからといって、何も語らないでは、主イエスの宣教命令は果たせません。イエス・キリストは処女マリアから誕生し、十字架上で死んだ後復活したことを信じているクリスチャンと、そんな馬鹿なことはあり得ないと確信している人達との意識の間には歴然たる溝があります。自然法則に反し、常識では認められない出来事を、現代のクリスチャンがどうして信じるに至ったのか、すなわち、クリスチャンには創造主である神には何でもできるという信仰があるわけですが、如何にしてそのような信仰に至ることが出来たのか、それを語り、後は聞いた方々の自由な判断にゆだねる姿勢が重要かと思います。それが多くの人に伝わるかどうかは定かではありませんが、キリスト教の教理は荒唐無稽と思い込んでいる現代人たちに、私たちの信仰はそんなものではないことを語ることがまず、宣教の第一歩となるのではないかと存じます。

 

信仰生活を歩んでいる今日のクリスチャン達も当初から、自分たちが神様によってつくられた者で、主イエスは神から遣わされた御子であり、処女マリアから生まれ、十字架の上で死を迎えたが、三日目によみがえられたとの確信を持っていたわけではありません。私などは三代目のクリスチャンで、幼少の頃から、教会に通い上記の教えを耳にタコができるほど聞かされてきましたが、実感をもってそれを信じることができるようになったのは成人したずっと後のことでした。それ以前もキリスト教の教理が間違ったものと否定的に捉えていたわけではありませんが、腑に落ちるほどの確信が得られないままに長い月日を重ねていました。若い頃は、主イエスの弱い者・貧しい者と共に歩まれる過程で語られた福音の言葉に捉えられ、ヒューマニズムの延長線上でそれに共感しつつそれを人の有り様の真理と受け入れては居りましたが、処女降誕、十字架の死と復活とは一体どのような出来事であったのだろうかと、その教理をしっくりとは受け止められない状態であったことを思い起こします。多分、多くのクリスチャンも私と同じような信仰の道を歩んだであろうと、また、クリスチャンの中には以前の私と同様に確信できないままに受け止めつつ信仰生活を送っている人も少なくないと推察します。