前話で考えた、他の宗教には見られないキリスト教特有の教理のうち今回は「受肉」について考えてみたいと存じます。
「受肉」とは子なる神がイエスという人となってこの世界に生まれ、地上での生活を送ったことを意味します。何故、神が人となってこの世に来ることになったのでしょうか。私は前述しましたように、人間が自然現象の中で偶然の結果として生まれた存在であるとは信じることが出来ません。人が未だ手の届かない大宇宙の神秘、身近にあってもあらゆる手段と知恵を駆使しても解明しきれない人体の神秘、人間の英知も及ばぬこの世界の神秘に触れる時、これが偶然の産物であるなどとどうして思えるのでしょう。人知を越えた神の意思によって造られたものであると考える方がより素直な捉え方であると私には思えるからです。そして、この世の営みは、神の手による天地創造に始まり世の終わりまで続けられる「神の国建設の大事業」であると私は理解しています。人は神の形に造られていると聖書が語る一方で、神の操り人形ではなく、知性、感性を含む感覚、良心、そして自由意志なる属性が与えられ、不完全ながらも自ら感じ、自ら考え、自ら決断して歩むように造られていることを私たちは実感しています。「良心」これは人が神を基準に考えようとする心というべきでしょうか。人がこれを備えているということは「人には神と交信できるチャンネルが備えられている」ことを意味し、他の動物と最も大きな違いであるように私には思えます。
人に自由意志を与えた神は人の行為を直接制御することはなさらず、感性を介して人の良心に働きかけ、導きを与えられるように見受けられます。人は良心というフィルターを通して受け止めた神の導きを、知性を使って受け入れるか拒否するかを考えて、自由意志をもって行動します。ということは、人は常に神の導きにしたがって行動するようには作られておらず、拒否することも可能なように造られているということになります。人は神の導きと共に、それに反する悪霊の誘惑(この世的誘惑と考えると分かり易いかもしれません。)を受け、行動するように造られているのです。この様な自由意志を持たせた人間にこの世の管理をゆだね、自ら感じ取り、自ら考えて何を大切にし、何を目標に生きようとするのか、どのような人間社会を形成しようとするのか、ハラハラドキドキしながら深い関心をもって見つめておられる神様のことを、私はこの世の造り主であり、私たち人間の生みの親、育ての親としてその存在を強く感じます。

ハランでの都会生活を捨てて、神の導きの下に荒野で生きる道を選んだアブラハムの子孫であるイスラエルは、神との契約を結び、自分たちは神の民であるとの選民認識を持ちました。このイスラエルの民に対して、神は律法(トーラ)と預言者という形で導きを与えたのでした。律法はモーセ五書と呼ばれ、モーセによって書かれたとされて来ましたが、実際には神が祭司・預言者を通じて示した生活と行動の基準で、時代をかけて伝えられてきたものを後に成文化したものと考えられています。また、預言者達はその時代々々にあって神の言葉を民に伝える役割を果たしてきました。モーセ五書とは、旧約聖書の最初の五書、即ち創世記、出エジプト記、レビ記、民数記そして申命記を指しています。
イスラエルには預言者を通して神の声が伝えられましたが、他国の王と異なり、神の名において立てられたはずのイスラエルの歴代の王は、預言者たちの警告にも耳を貸さずこの世の栄華と権力に目がくらみその本分を忘れ、神の導きに従わず、イスラエルの国を滅亡させてしまいました。
また、イスラエルは神の民として、エルサレムの神殿を彼らの信仰の中心地として、与えられた立法を大事にしながら彼らなりの信仰を深めてきたのですが、律法にこだわり、その重要性を強調するあまり律法本来の趣旨を見失って形式的な遵守、律法主義へと迷走してしまいます。例えば、「安息日を聖として忘れてはならない」という戒めの趣旨は、夢中になって働き続けることなく、安息日が来たら休んで神を思い自分を回復する時とする点にあることを忘れ、安息日に仕事をすることは悪いことと誤解し、正しい行為をも禁止させるといった弊害を起こしたりしていたのでした。神様に信頼をおいて歩むのではなく、律法を遵守すれば神様から良い評価が得られて救いに至るという間違った信仰に走りました。また、名声や栄誉に心を奪われ人前で律法を守っていることを誇示する偽善行為などがはびこるようにもなりました。
イエス時代のユダヤ教指導者達は常に神様を意識して律法を守ることに努めてはいたものの、自らの努力、行為は神様からの高い評価を受けるものと誤解した上で、律法を守るこることができない人々を軽蔑し、自分たちは偉い人間だと傲慢になっていました。神様は律法と預言者によってイスラエルの民を導こうとされたのですが、イスラエルの民は預言者の言葉に耳を傾けず、律法を形骸化させ、神の民の船は座礁した状態となってしまいました。この様子をご覧になった神様は、人の感性と知性は不完全なものであるから、人間には限界があり、律法と預言者だけでは健全に生きられないと思われたのでしょうか。このままでは人間の成長はおぼつかないと考えられ、行き詰った御国の建設事業を打開するため、本来の救いの道筋を整えるため、真理について証するために(ヨハネ:18章37)自ら人となってこの世に降られたのだと推察いたします。人間イエスとなって人間社会に顕れ、誤解されることの少ない五感に直接訴える言葉と行いを通して人間への真理の伝達をなされた。これが神のみ子が人となってこの世に現れた「受肉の出来事」の意義であると私は理解しております。
当時のユダヤ社会は前述したような考えに凝り固まった人たちが信仰的指導力を握って神の民を指導していたのです。人となられた主イエスはユダヤ人に向かって言われました。最も大切な戒めは「『あなたの神である主を愛せよ。』『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」と。律法学者たちによる律法の遵守は愛を伴っていませんでした。それ故に、彼らの行為は律法の本来の趣旨を離れ、人を神様から遠ざけるものとなっていました。そのようなユダヤ教社会の中で厳しく育てられ、後に主イエスに出会って改心した聖パウロは、ファリサイ人、律法学者らのエリート意識を害あるものとみなして、人が義とされるのは行いによるのではなく、信仰によること(信仰義認)を力説しました。
律法全体と預言者とが、この二つの戒め「愛せよ」にかかっていると言われた主イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。成就するために来た。」とも言われています。律法を守ることは良いことだが、その際に最も大事なことは神様の愛に倣って神様と隣人を愛する心をもってそれを行うことにあると言われるのです。いちいち律法を引き合いに出してこれを守ろうとする必要はなく、愛の心をもって生活すれば、自然と律法に叶った行為となるということだと思います。