今回はキリスト教の核心ともいうべき復活という出来事について考えてみたいと存じます。そもそも「復活」という日本語がこの出来事の表現として適切なのかという疑問を最近私は感じています。また、ニケヤ信経にある「死者のよみがえりと来世の命」使徒信経にある「体のよみがえり、永遠の命」ということを信徒の皆様はどのように理解しておられるのでしょうか。聖職や神学者の方々からお叱りを受けてしまうかもしれませんが、この「復活」という言葉を用いることで人々を迷路に追い込んでいるのではとの危惧を最近感じるのです。この言葉の意味するところは、一度この世の死を迎えた者が息を吹き返してまたこの世の人生を継続すること、いわゆる蘇生と一般には解釈されます。また、広義には一旦ダメになったものが元の形を取り戻すことを意味しています。ラザロやタリタクムの少女の復活は蘇生でしたが、いずれもその後この世を去っています。これに対して、キリストの復活は蘇生ではありませんでした。元の人間イエスがこの世の人生を再開したわけではなかったのです。

 弟子たちに姿を見せ会話まで交わされた主イエスは生前と同じ肉体を備えた存在であったかといえば、鍵をかけてある密室に現れ、その後消えたということですから、その実体は物理的な存在である生物体ではなかったということになります。しかも、主イエスが姿を人前に現したのは40日間だけで、その後、彼らの見ている前で天に昇って行ったと聖書は記しています。復活といっても、元の生身の人間として甦り、この世の生活を再開されたわけではなく、主イエスの復活は文字通りの甦り、肉体を持った人間の蘇生ではなかったということを心に留めつつ、ここでは神様は「復活」という出来事を通して私達人間に何を示そうとされたのかを考察してみたいと存じます。

 

【復活についての私の理解】

 伝統あるキリスト教会の正当神学とは言えないかもしれないことをお断りしつつ、以下に、私自身が理解し信じている復活の出来事について述べさせていただきます。

 主イエスは、「わたしの国はこの世に属していない」(ヨハネによる福音書18章36節)と言われました。わたしの国とは天の父なる神の国、天国を意味するものと解されます。復活された主イエスは物理的存在ではないため、私たちはそのお姿を目で見ることも、その声を耳で聞くことも手に触れることもできません。要するに時間と空間の次元にあるこの世で、復活の主イエスを人々が目で見て耳でそのお声が聞けたのは40日間の期間限定であったということになります。復活された主イエスは弟子たちに語られた後、彼らの見ている前で天に昇られたと聖書(マルコ福音書、ルカ福音書、使徒言行録)は記しています。これも現代の私達には奇怪な現象といえるでしょう。主イエスは神様のことを天の父(天におられる父)と呼び人々に示されましたが、神の国が文字通りの天、宇宙空間にあるわけではありません。「天」というのはあくまで象徴的な表現であり、私達が生活している地上の世界とは異次元の世界を意味していると解されます。その異次元の世界におられる父のもとに帰られることを人々に分かり易く示すために、当時の世界観に即して天に昇っていくというような形をとられたものと推察されます。

 このように、神様は物分りが悪く、目に見えるもの、手に触れることのできるものしか信じることができないでいる人間に、サクラメンタルな手法で真理を示される教育手法をよく採られると私は感じています。この世の出来事ではない現象を、この世の人間に目に見える現象の形をとって示されます。聖公会では聖奠(サクラメント)について「目に見えない霊の恵みの、目に見えるしるしまたは保証であり、その恵みを受ける方法として定められています。」と教会問答で説明しています。また、古い教会の伝統を継承しているローマ・カトリック教会は、洗礼、堅信、聖体、告解(ゆるし)、終油(病者の塗油)、聖職按手(叙階)、婚姻の7つをサクラメント(秘跡)と制定しています。そして私たちの聖公会もその伝統を大事に保持していますが、そのうち洗礼と聖餐(聖体)を救いに必須のものと位置付けています。

 主イエスの受肉も十字架による贖罪も、主イエスのご復活、そして昇天もみな、サクラメンタルな手法を用いた神様の啓示であったと私は思っています。そして、主イエスの存在、それこそが最も大きなサクラメントであると私は思っています。40日の間人々の目に姿を見せられたこの復活という出来事は、人は生物学的な死によって消滅するものではないということを、すなわち、本来目には見えない神の業を目に見える形をとって私たち人間に分かりやすく示されたのだと推察致します。

 人間の生物学的な死は、人間の消滅ではなく、神様を信頼してその導きの下で生きようとする人の霊はキリストの体に連なって永遠に生きるとキリスト教会は宣言します。しかし、死後の世界については実は誰も知らないのです。主イエスは神の国はこのようなところであると、たとえ話をもって話されましたが、死後の世界はこういうところという具体的なお話はなさいませんでした。唯一、復活した人間について次のように語られていることに注目したいと存じます。

 “その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。 最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」”マタイ福音書第22章

 死後の国では妻も夫もなく天使のようになると言われています。男であるとか、女であるとか、誰の親であり誰の子供であるとかの立場、家族関係や社会組織などの人間関係は解消されるものの、天使のように個人が識別可能な形でキリストの体に連ねられるということでしょうか。そして、神様がアブラハム、イサク、ヤコブの神であるということは、歴史を通して人々に導きを与えながら今という時を共に歩まれる神であると私は理解しています。天地創造に始まり、世の終わりまで続けられる神の国建設事業の進行過程にあって、神様は人の行為に直接干渉するのではなく、人の心に働きかけ、お前はこの状況の中でどのように歩もうとするのかをじっと見つめながら問うておられる。先のマタイ22章の主イエスのお言葉は、死後の世界はどんなところなのだろうかとか、復活した人はそこでどのような営みをするのかなど考え、心配することは止めなさい。そのような余計なことを考えないで、ひたすら今の時を受け止め、私と共に歩みなさいと神様は言われているのではないでしょうか。人がそのように生きる姿勢にこそ、時間を越えた本当の命(永遠の命)が宿ると言われておられるように私には思われます。

 

 復活についての私の理解はこのようなものですが、皆様はどのようにご理解されておられるでしょうか?キリスト教信仰の核心ともいえるこの復活について、私たち信徒は、現代に生きている外の羊である兄弟たちに自分の理解に基づく自分の言葉で語ることにより、主イエス復活の証人となってゆくことが信徒としての責任ではないでしょうか。