第31話 沖縄愛楽園訪問

2010年7月11日

私が初めて沖縄を訪問したのは沖縄の本土復帰の年(1972年)であったと記憶している。当時教会の学生達がO氏を中心に沖縄のハンセン病療養所「愛楽園」訪問活動を続けていたが、沖縄は復帰までは外国扱いであり、渡航手続を必要とし、国家公務員であった小生は手続が厄介であったため、沖縄訪問を敬遠していた。復帰が成って小生の訪問も実現できたのである。愛楽園は自身が病者でもあった青木恵哉師が中心となって設立された療養所である。師は16歳でハンセン病を発病、香川県の大島療養所に入所、ここで洗礼を受けた。その後熊本の回春病院に転院し、英国国教会宣教師ハンナ・リデル女史の感化を受け1927年沖縄の病友への伝道に派遣される。焼き討ち事件など地元の強い抵抗に遭いながら、1938年病友と守り続けた土地(屋我地島大堂原(うふどうばる))に「国頭(くにがみ)愛楽園」を設立する。これが現在の国立療養所沖縄愛楽園の前身である。

1972年当時、この病気については「らい病」という呼び方が一般的であった。本病はらい菌によって起こる慢性の細菌感染症で、末梢神経や皮膚が犯されるという症状がでる。重傷となると皮膚に変形を生じ、顔かたちまで変わってしまうため人々からひどく恐れられた。家族で発症する例が多いため遺伝病と誤解された上に、天刑病等とまで言われ、病者やその家族には非人道的な仕打ちが繰り返され、多大の苦労・心労を強いてきた歴史がある。

ハンセン氏によって「ライ菌」が発見されてからは、研究が進んで特効薬も開発され、完治する病気となった。菌自体の感染力は弱く通常生活で感染することはまず無いのであるが、以前は発症した母親が幼児を長時間抱っこするなど、体力の弱い者が発症者との濃厚な接触によって感染してきたようである。現在は既病者も治療によって本病自体は完治しているが、体の変形などの後遺症が残ってしまうため、偏見を受け社会復帰ができずに療養所内で生活を続ける人が多いという事情がある。

30数年前、小生が初めて愛楽園を訪問したときの様子を紹介致しましょう。到着した愛楽園の正門の両側は黒っぽいコンクリートの塀が続き、一見刑務所とも見える情景でした。そのコンクリートの塀には機銃掃射の弾痕が多数ついておりましたが、それは戦時中米軍にこの施設が兵舎と誤認され攻撃を受けたときのものとのこと。門の中に入りますと右手に交番のような建物がありましたが、これは面会所で以前は外来者が園内に立入ることはなくここで入園者と面会をしたとのことでした。郵便配達もここまででここから先は入園者自身が配達をしていたとのこと。園内が一般社会から隔絶された刑務所のごとき領域であったことを偲ばせるこれらの遺構は、沖縄海洋博が催された年、皇太子であった現天皇が愛楽園を訪問される前にきれいに撤去されたのでした。誰がどのような発想でそうしたのか想像するのはいささか興味深いところであります。

日本ではらい予防法の下で、病者の強制収容と、子供を作らせないように堕胎や避妊手術の強制政策によって、また特効薬ができて容易に治療が可能となったことにより、新しい患者がでる可能性はなくなり、近い将来日本からハンセン病は消滅し、過去に繰り広げられた本病にまつわる不幸な出来事が二度と繰り返されることはないと思われますが、エイズ等人に怖れられる病気の患者に対しては将来においても、本病におけるのと同じような非人道的な扱いが私たちの社会で繰り返されることを否定できません。そのことを思うとき、後遺症を抱え今なおひどい偏見の中に生きておられる元ハンセン病患者の方々の逝去と共に、この方々が体験した過去の不幸な出来事を決して風化させてはいけないと思うものです。