第33話 祈りの家教会の方々

2010年7月25日

沖縄愛楽園内には日本聖公会に属する「祈りの家教会」がある。

園の創立者である青木恵哉師は宣教師ハンナ・リデル女史によって派遣された伝道師であったため、師のもとに集まった病者にはキリスト教信仰に導かれた者が多かった。

愛楽園の中でも私達と親交が深かった祈りの家教会信徒の方々は聖書を真剣に読み、一心に祈ることが生活の一部に浸透していた。

若い私達のようにキリスト教を観念的に捉え、聖書を頭で理解しようとするのではなく、きちんと心で読み、信仰的に捉えておられた。

自ら取捨選択したわけではないにせよ、この世(朽ちる世界)での可能性を否応なしに剥奪されてしまった入園者の方々は、希望と自らの存在の軸足を朽ちない世界である天国にしっかりと置いておられることが私達の目にも感じられた。

決して高い教育を受けられた方々ではなかったが、ぽつりと語られる言葉が時として哲学者の言葉のようでハッとさせられることがあり、まだ若く、この世での可能性や望みにしがみついていた私達青年の目からは眩しいような先輩達でありました。

木曜会という木曜日に定例の集会がもたれるグループがあり、ある時小生もゲストということで例会に参加させて頂きました。

お祈りの後、その日のテキストとなっている聖書の箇所(マタイ:25章「タラントン」のたとえ)が読まれ、朗読が済んだとき「山田さん今日の朗読箇所について話をしてください。」と司会の方から突然振られてしまいました。

見学者のつもりが急遽話をする立場に立たされて冷や汗をかきました。

「人は神様からそれぞれに才能が与えられている。その才能を見出し、磨きをかけしっかり社会に役立たせなさいと言う勧めであろうと思います。しかし、最後の『誰でも持っている人は更に与えられて豊になるが、持っていない者は持っているものまで取り上げられる。』との言葉は誤解されやすいように思え、一寸気になりました。

強欲な資本家が労働者から絞れるだけ絞って更に豊になり、貧しい人は更に貧しくなるみたいに聞えてしまいますが、これは与えられた才能を真面目に使えば更に磨きが掛かって豊にされるが、使いもせずにおけばさび付いて与えられた才能まで失ってしまうという戒めと私は理解しました。」という趣旨のコメントを汗をかきかきしたように記憶しています。

普段あまり真面目に聖書を読んでいなかった小生が日頃からよく読み込んでおられた祈りの家教会の方々を前にしての拙いお話しでしたが、それ以来お陰様で、この聖書の箇所は小生にとって思い出深いものとなっています。

そのような先輩方も多くはすでに天に召されてしまった。

1972年当時園内には八百数十人の入園者が生活していたと記憶しているが、現在は260名余となっており、祈りの家教会の日曜日の礼拝出席もかつては百数十名であったが現在では30名足らずの状態となっている。

存命でおられても自室から教会までの歩行が困難となっている方が多いためです。

ライ予防法が廃止されたのは1996年でした。

条文は実質的に死文化されていたとはいえ、強制収容・逃亡者の強制連行などの非人道的な条文が現行法として存在していたのです。

元患者の方々が声を上げるまで、長い親交をいただいておりながら、その事実の重大さに気付くことなく廃止運動をしてこなかった自分を大いに恥じました。

その後、ライ予防法の下で永年非人道的な扱いをしてきた国がせめてもの罪滅ぼしということでしょうか、園内施設もすっかり立派なものになり、ホテルのような老人施設となっています。

せめて長生きをされている方々には偏見から解放されて快適な環境の中で余生を過ごして頂きたいと願うものです。

入園者であり、晩年は祈りの家教会の牧師を務められた 司祭徳田祐弼先生の遺された和歌をご紹介します。

「この病、われよりすべて奪いけり 永遠(とこしえ)の生命(いのち)一つ残して」