第34話 宗教に頼るのは弱い人間のすることなのでしょうか?

2011年7月17日

宗教なんて弱い人間が求めるもので、健康で元気な人間はそんなものに頼ったりしないといわれる方がよく居られますが、はたしてそうなのでしょうか。
神様に聴き従って生きるとは自らの努力を放棄し、自立心を喪失した生き方では無いと思います。

 人が他者に頼るという行動はどんなときになされるかを考えてみましょう。
まず、この世に生を受け生まれ落ちた時点で、赤子は人(主として母親)の援助なしに生きることは出来ません。
この時点での人の自活力は他の動物と比べて極めて低いと言われます。
母親に見捨てられた赤子は死ぬ運命にあるといえ、例外なく、全面的に他者への依存によって生かされています。
では、成人した人間が困難に遭遇したときはといえば、他者に頼る前に経験から学んだ手法で自らその困難を克服もしくは回避しようとする行動を起こします。
多くの場合、それで対応が取れるのですが、自分一人の手に余る場合もあり、そんなときに他者の援助を求める行為が採られます。
他者の助けを借りることで困難を克服できることもありますが、人が生きていくという過程では、人智の及ばぬ事柄にもまま遭遇します。
人が協力しあってもどうにも解決できない問題があり、そんなとき人は神様に助けを求めます。
この態度はよく「困ったときの神頼み」といわれ、揶揄されますが、人として至って自然な行動であると私には思われます。
揶揄する人の心には自ら努力しようともせず神様に頼る「怠け者」という思いと、「助けてもくれない神様に頼る愚か者」という気持ちが潜在しているように思われます。

さて、皆さんはマザーテレサという方をご存知でしょう。
どんな働きをされた方かよくは知らないという方もおられるかもしれませんが、インドで臨終が近い身寄りのない路上生活者を、せめて人生の最後は人間らしく旅立たせたいと世話をして看取る働きをされ、ノーベル平和賞を受けた人と言うことはご存知の方が多いでしょう。
この方はローマカトリックの修道会の修女さんでした。
「神の声」を聞き、伝統ある修道会を出て、貧しい人、困っている人たちを助けることを決意し、カルカッタにあるスラム街に移り住んで、孤児やハンセン病の人々の為に救済活動をはじめました。
極貧の人に奉仕する「神の愛の宣教者会」を開設し、新設の修道会の責任者(マザー:霊母)となり、インド国籍を取得し、1952年に行き倒れの人々や重症の人々を収容する「死を待つ人々の家」を設立したのです。
そして、マザーテレサはケアする相手に決してキリスト教を押しつけることはなく、本人の宗教を尊重し、その者の宗教のやり方で看取っていました。
バチカンや修道会といった教会組織からの資金援助を期待することもなく、一人貧民街に飛び込んで地道に奉仕活動に励まれました。

皆さん、このマザーテレサを弱い人間だと思われる方はありますか?確固たる信念と、実行力を備えた強い人であったと思われるでしょう。
確かに、我々の目にはそのように映ります。
しかし、マザーテレサはいわれます。
「人からソーシャルワーカーと呼ばれることには耐えられません。そして社会奉仕をしていたのだとしたら、わたしはとっくにやめていたでしょう。」と、「自分達は弱い人間で力などありません。自分の努力・精神力では仕事は成し遂げられません。私達はイエス・キリストに従っているだけです。臨終が近い身寄りのない路上生活者の世話をしておられるのは主イエスご自身であり、傍にいる私達は自分に出来ることでその手伝いをしているだけです。弱い人間を強い神様が使って下さるのです。」
無理を背負うのではなく自分に出来ることをする、足りないところは主イエスが担って下さるという意識で働いておられた。
現場にいる自分の傍にはいつも主イエスがいて下さるという確信(信仰)があり、自分の持っているものは弱さをも含めてみんな主イエスにお預けし、自らを無にして祈りつつ安心して主イエスについて行くキリスト者の姿が見てとれます。

人は問題意識を持ち、自らの努力でそれに立ち向かおうとしても無理が溜まり疲れ果て、挫折してしまうのが関の山です。
私のような信仰が薄い軟弱者は
「私に出来るのはここまでです。もう無理ですこれ以上何も出来ません。」
とすぐ弱音を吐いて現場から逃げだそうとしてしまいます。
しかし、しっかりした信仰を持った人はたとえ自分が躓いてもそれは自分の弱さ故のこと、主イエスが躓かれることはないと信じて現場から離れることをしません。
疲れて倒れても又起きあがって主イエスの手伝いを始めます。
このような生き方は決して自ら努力しようともせず神様に頼る「怠け者」には見えませんし、「助けてもくれない神様に頼る愚か者」ともいえないでしょう。

聖パウロはコリントの信徒への手紙2の12:10で言っています
「なぜなら私は弱いときにこそ、強いからです。」と。
弱いときこそ強いということは矛盾した言葉のように聞えますが、これは真理と思われます。
自分の弱さを自覚しそれをも主イエスに預けてしまった人の中に神様の強さが宿るということだと思います。
この様な人は弱さに中に留まることはなく結局は神様によって強くされるのです。
マザーテレサに限らず多くの聖人と呼ばれる人達の生涯がこのことを実証しています。

聖パウロは更に語ります。
「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」
(フィリピの信徒への手紙4:13)