イエス様がこの世においてどのような生涯を送られたのか、特に、約3年間であったと言われる公生涯の中でどのような宣教活動をされたのか、聖書の記述から見てみたいと思います。

人間イエスは約2000年前の方ですが、働かれた地域は、当時隆盛を極めていたローマ帝国ではなく、文化レベルの高かったギリシャや中国(漢)でもなく、何故かローマ支配下にあった小さな国ユダヤを選んで降誕されたのでした。
その理由はそこに住むイスラエル民族の宗教的意識の高さにその所以があるのではないかと小生は推察致します。
この民族が正しい信仰の下に歩んでいたか否かは別として、イスラエル民族ほど日々の生活の中で神様を意識していた民族は他になかったからだと思います。

ユダヤ社会はアブラハムを信仰の父とし、紀元前1000年頃エジプトにおいて奴隷の状態であった先祖達がモーセによって解放されたこと、多くの預言者を与えられ導かれてきたことから、イスラエルの民は神様に特別に選ばれた民という強いエリート意識をもっておりました。
人々の考え方、価値観はモーセ5書(トーラ)を社会規範としたユダヤ教に基づいた社会で、イスラエル民族は一般民衆に至るまで皆、日々神様を強く意識し生活しておりました。
因みに、その当時の私達の日本はといえば、いまだ弥生式土器の時代であり宗教的土壌はまだ未開発であったと推定されます。

また、主イエスが宣教活動をなされた主たる場所は、神殿が建ち宗教・政治の中心地であったエルサレムではなく、ユダヤの中でも北部にあたる田舎のガリラヤ地方でした。
幼年期から成人されるまで生活されたナザレという村もガリラヤにあります。

当時のユダヤ教はエルサレムの神殿を中心に、大祭司を頭とする神殿に仕える祭司達とファリサイ派(革新系)やサドカイ派(保守系)といった学派に属する議員達の議会により、強い権威を以て指導・運営されていました。
また、一般民衆は、ローマの圧政の下で神に選ばれた民としてのプライドを傷つけられ、苦しめられていたため、ユダヤの国をローマ帝国から開放し、昔のダビデ・ソロモン時代のように繁栄した独立国を再興してくれる救い主メシアの出現を神の救いとして待望していたのでした。

2000年前のそのような状況のユダヤ社会の中にあって、キリスト・イエスは「人」として生まれ宣教活動を展開されたのです。

アブラハムを信仰の父とするユダヤ教は前述したようなユダヤ教の幹部達の指導の下で、モーセ5書をはじめとする律法(トーラ)へのこだわりを深めるあまり、人を導き成長させるための律法が本来の趣旨を離れ、神殿の権威の下で形骸化し、人々を不自由に縛り付けてしまっている弊害が顕著となっていました。
その歪んだ信仰を悔い改めによって本来の姿に正し、神の赦しによってはじめて成立する神様と人間との正しい関係を回復させることがキリスト・イエスの関心事であり、それを自らの贖罪(十字架の死)によって成し遂げることが父なる神から与えられたご自身の使命であると認識されていたことを聖書は伝えています。

キリスト・イエスの活動の第一歩は、手足となって働く弟子達の選任でしたが、選んだ人はというとそれは教養ある知識人ではなく、ガリラヤ湖周辺で見つけた素朴な漁師達であったことにまず、注目したいと思います。
そのことはキリスト・イエスが前述したご自身の使命を果たすために、身を置かれ働かれた場所が神殿や議会といったユダヤ教の中枢部ではなく、ユダヤ社会で阻害され苦しめられていた民衆達の中であったことと無縁ではないと思われます。

律法が形骸化し、本来の趣旨を離れ歪んだ状態になっていた既成宗教を組織内から改革して正しい道を示すのではなく、反体制にたつ新しい批判勢力を立ち上げるのでもなく、既成宗教により阻害され生きにくくされている人達に寄り添う形で、本来の人のあるべき姿、すなわち神様に聴き従って生きる道を示すという手法を採られたのでした。

人間イエスが寄り添いコミットしたのはユダヤ社会で阻害されていた障がい者、病者、苦労を負わされていた女性、嫌われ軽蔑されていた徴税人、悪霊に憑かれた者たちでありました。
その一方で、律法を厳格に遵守することこそ、神様の御心に適うことと確信し、徹底して律法に忠実である自分たちこそ、神様の御心に適う者と自負していたファリサイ派の人や律法学者達を反面教師として取り上げ、激しくその生き方を非難されています。

キリスト・イエスは

神様の目から見れば、律法を守っているつもりの人も守っていない人も大差はない。
人は皆、過ちを犯す者であり、神の心を理解しない自己中心的な面をもった者である故に、いずれも不完全な存在でしかないことを認識すること。
人が神様の前に可とされるのは、その人の業績によるのではなく、神様の一方的な恵み(赦し)によるものであり、それを可能にするのはキリスト・イエスの完璧な贖い(十字架の死)によるものであることを認識すること。
人にとって大事なことは、上記のような正しい認識(信仰)をもって、神様の招き(福音)を感謝して素直に受けいれる姿勢であること

を宣教されたのでした。