第3話 キリスト教信仰への道

2009年5月3日

 キリスト教の「キリスト」とはメシア(油注がれし者)というヘブライ語のギリシャ語訳Χριστο? (christos)(クリストス)からきています。

 

頭に油を注ぐ儀式は古代イスラエルにおいては、王や祭司などの即位に際して行われていました。

「キリスト」とは要するに「救世主」との意味で使われているのですが、「その救い主であるイエスは母マリアと許婚者であったヨセフとの間に誕生したのではなく、聖霊によって身ごもった処女マリアから生まれた。

」そして、そのキリスト・イエスは30歳くらいの年から約3年間の布教活動の末、ユダヤ教の指導者たちの妬みを買い、当時ユダヤを支配していたローマの総督の前に連行されて無理やり十字架の刑に処せられた。

「しかし、三日目(金曜日の午後十字架上で死に、日曜日の朝に復活)に甦られ昇天されるまで弟子達はじめ多くの者の前に姿を見せられた。」

 これは新約聖書が伝える出来事でありますが、この話を21世紀の日本人に直接話して聞かせたならば、「え!今時のクリスチャンもそんな『復活』とか『処女降誕』を信じているの?」という率直な質問が返ってくるでしょう。

 

私にはこのような反応は現代人として無理からぬこと、というよりむしろまともな反応であると思えます。

もし、この『復活』とか『処女降誕』あるいは聖書に記述された病人や障害者の癒し、5つのパンと3匹の魚で5000人(家族)の食を満たしたといった奇跡物語に、

「イエスという方はそんなことをなさったのですか。やっぱり神様の子だからできたのですね。

私はこのような神の子イエス様に迷わず従って生きてゆきます。」

 

というような模範解答?が返ってきたならば、それこそ

 

「え! あなたは何の疑問も感じないでこの話をすんなりと信じてしまうの? 大丈夫かしらこの人は。

くれぐれも怪しげなカルト宗教などに走らないで下さいね。」

 

と反って心配になってしまいます。

 

信仰とは、分からないけれどとにかく信じてしまえばよいというようなものではありません。

無理をせず信じられないところは、信じなければよいのです。

これは真実だと実感できるところから一歩一歩進むことが大切であると思います。

そうでなくてはその人の霊的成長はなされないと思うからです。

 

「人の子を汚す者は許される。しかし、聖霊を汚す者は永遠に許されない。:マタイ12-32」

これはイエス・キリスト自身の言葉です。

 

これを小生の70点解答で分かりやすく解説すれば、

 

「イエスがキリスト(救世主)であるとか、処女マリアから生まれたとか、十字架で死んだ後復活したなんてとても信じられない、と思ってもよろしい。

しかし、貴方の心に語りかける神様の声(聖霊)に耳を傾けないような頑なな態度をとるならば、貴方の霊的成長は不可能であり救いようがない。」

 

といっておられるのです。

神に聴く姿勢、聖霊との交わり(神様との交信:祈り)こそが人間の命綱であるということだと思います。