第5話 誰が天国へ行くの?

2009年5月17日

 真面目な日本人の中には、

 

「もし、神様という存在があるならば、すべての人を公平に扱い、正しい評価をなされるはずである。

だから一人一人の生き方をみて、世のため人のために一生懸命努力する人には恵みを与え、死んだ後には天国に迎え入れてくれるなど相応の報いがあるはずだ。」

 

との思いがあり、そのような神様でないなら神様なんて必要ないと考える方が多いようだ。

これは東洋的な考え方ともいえる「因果応報」の思想に根ざすものといえよう。

 

確かに多くの宗教にはこのような一面が見え隠れする。

宗教には一般に人を導く戒律なるものが定められており、その戒律を忠実に守って生きるものは善人とされ、救われるという教義である。

これが正統な仏教の教えかどうか門外漢の私には分からないが、悪行よりも善行の方が多ければ閻魔様はその人を極楽行きにしてくれるという考えもこの類といえよう。

また、トーラ(律法)を忠実に守ることこそ神の前に正しい者とされるとの強い信念をもっていたイエス時代のユダヤ教、とりわけパリサイ派の人々はその典型といえるであろう。

 

意外に思われるかもしれませんが、イエス・キリストの教えでは律法を真面目に守って生きた人、立派な行いをした人が天国に行かれるとは言っていないのです。

 

イエスが救いに必要なこととされたのは“悔い改めて福音(神様からのよき音信)を信じる”ことでありました。

何を悔い改めるのかを一言で言えば、それは“自分の価値観に基づいて自分の力だけで人生を完結しよう”とする生き方のことであります。

 

これは人が神を必要としないで自らの力で自分の存在の責任をとろうとする姿勢であり、言い換えれば自らを神とすることであります。

キリスト教ではこれを罪の根源としているのです。

 

 人は物心が付いた時にはこの世に生を受けていたという存在であり、自らの意志で生まれてきた者は誰もいない。

そもそも自らの存在に責任を持てる者などいないはずです。

勿論親の意志や責任で生まれてきたともいえない。

人の親となった者は自らが子の誕生に一役買ったことは確かであるが、自らの力で子をなしたものではないことはよく分かるはずである。

キリスト教が教える罪とは、基本的に神の心を拒否することであり、神を必要としない傲慢こそがもっとも重い罪とされており、犯罪に代表されるような道徳的な悪を行うこととは異なるものなのです。

一人一人をすべて異なる存在として作られた神様がその人間に求めておられることは、本当の親(神)として子(人)が聖霊の導きの下で霊として精神的に成長し、その人が本来のその人となっていくことであるといえるでしょう。

そして、他者とは異なるその人となった存在、即ち、自分自身となろうと神の声に聴き従って生きた者は生物学的な死によって消滅することはない、とキリスト教は教えます。

この世においては、人は体と心が一体となった存在であり、心は体を離れて存在することはありません。

脳の機能と精神活動が密接な関係にあることは現代人が疑うことなく認めるところでしょう。

しかし、人格という精神的実体は空間的、時間的次元に閉じこめられたものではなく、別次元(朽ちない世界:天国)へと拡がって実存するものと教えているように思えます。

 

 要するに、良い行いを積むことによってではなく、神様に信頼を置いて生きていく姿勢の故に人は義とされ(信仰義認)、死なない(朽ちることのない永遠の命)存在となれるというのがイエス・キリストの教えです。

 

「あなたの信仰があなたを救った:ルカ7:36-50」

 

といわれるイエスの宣言や、ロマ人への手紙3:28に記された聖パウロが解く信仰義認を参照されてみてください。

小僧の70点メッセージで申しますと、キリスト教でいう永遠とは「時間の連続」「無限の時間」を意味するものではなく、「本物となる」という質の問題であるといえると思います。