第7話 キリスト教における律法

2009年5月31日

キリスト教はメソポタミア地方のカルデアで生まれ育ったアブラハムの宗教を基礎としている。

紀元前2000年頃、神に導かれ、カルデアの都市ウルで生まれ、一族が住んでいたハランを出発して行き先が示されていない旅立ちをしたアブラム(出発当時の名前)は、長い試練となる砂漠の流浪をする。

神に従順に従うアブラムは神の御心に適い約束の地カナンが与えられ、アブラハムとの名を戴く。

名の意味は「父は高められる」の意で、彼が多くの民(ハモン)の父となる約束を神から受けたためである。

アブラハムの信仰はイスラエルの民に引き継がれ、モーゼや多くの預言者を輩出しエルサレムを都とするユダヤ教となる。

キリスト教はこのユダヤ教社会の中でナザレ(ユダヤのガリラヤ地方の村名)のイエスの教えによって2000年前に誕生した。

イスラム教も同じアブラハムの宗教を基礎として7世紀にムハンマド(以前はマホメットという呼び方をされていた人)によって始められている。

要するに、世界三大宗教に数えられるキリスト教もイスラム教ももとはユダヤ教であり、この3つの宗教はアブラハムを信仰の父としているのである。

‥‥それだのに何故あんなにも仲が悪くてパレスチナでは際限なく争いを続けるのでしょうか。

信仰の父アブラハムは困ったものだとさぞや心を痛めていることでしょう。

(これは門前の小僧のつぶやき)‥‥ 紀元前1000年頃のモーゼの十戒を初めとするユダヤ教の律法(トーラ)が記されているモーゼ5書は旧約聖書に取り入れられキリスト教の聖典とされている。

したがって、キリスト教においても十戒などの律法は信仰者の規範として大切にされているが、律法(トーラ)に対する考え方はユダヤ教、少なくともイエス時代のパリサイ派とは大きく相違している。

イエスは事細かに規定されている律法をただ1つ「愛せよ」との戒めに集約された。

「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」との問いにイエスは次のように答えられた。

「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。

第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これら二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。:マタイ22:36以下」

このイエスの言葉を例によって小僧の70点メッセージとして分かり易く解説すれば、聖書(旧約)には生活全般に渡り事細かに規定がなされた律法や、多くの預言者のメッセージが記述されているが、その本質はすべて「神を愛せよ」と「隣人を愛せよ」というこの二つの戒律に帰着するものであり、これが守られるならば自然と規律に沿い律法の趣旨、預言者のメッセージが伝わるものなのだと言っておられるのです。

すべての律法も預言者によって伝えられた神の言葉もすべてこの「愛せよ」の一語に尽きる。

ところでこの、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」との言葉の原典は旧約聖書の申命記6:4です。

また、キリスト以前と以後における律法の役割の変化について、初代教会の伝道者聖パウロは次のように説明しています。

「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。

わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」(ガラテヤ書3:23-25)

すなわち、律法は養育係としての役目を担っていたというのです。