第5話で申し上げましたように主イエスの宣教第一声は

「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」(マルコ1:14)

でした。

主イエスが人々に何を悔い改めなさいといわれているのかを端的に知るには、主イエスが反面教師として挙げられたファイサイ派の人々の有り様を検証してみるのが分かり易いと思われます。

そこで、今回は主イエスがなされたファイサイ人批判に目を留め、人のあるべき姿について学んでみたいと存じます。

 

マタイによる福音書第23章には律法学者とファイリサイ派の人々に対する主イエスの非難がこれでもかというほど記されています。

「律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らの言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。」

と始まります。彼らが口にする律法そのものは間違ったものではないので尊重しなさい。でもあの人達のようになってはいけませんと言われています。何がいけないと言われるのかは以下に例示されています。

人には強要するが見せかけだけで自分では行わない善行。権威を示す立派な身なりや宴会や会堂での上席を好み、人から先生と敬われたいとのうぬぼれの思いなどです。

これらの指摘を一言で言えば、彼らが「偽善者」であることが問題とされているといえるでしょう。

 

人は誰でも、自らの存在の意味づけが欲しいと思う故に、社会に役立つ人間になりたい、他人からよい評価を受けたいとの思いが起こり、そのために努力をしようとします。勉学においても、仕事においても勤勉であること、そのこと自体は決して悪いことではないと思います。また、どの宗教でも神様を求めそれに近づくことを目指して、身を律して戒律をきちんと守り、教えをしっかりと学ぶ努力を奨励しています。

真面目な人ほどその指針に忠実であろうとする傾向は強いといえます。多くの宗教では、人を指導する立場になる者(僧侶や聖職者)は俗世間を離れ、勉学や修業に打ち込む姿勢が見られます。キリスト教においても聖職志願者は神学校や修道院に入り訓練の時を経験する過程がとられています。

ところが、この真面目に一生懸命に生きようとする人間の姿勢の延長線上に大きな落とし穴があることを主イエスは指摘されているように思えます。

 

努力することに問題があるのではなく、その努力によって、自分は凡人より神様に近づけたという自負心が起こり、人よりましな人間になった、神様からよい評価を受けられる人間になったという優越感、エリート意識をもつことにあるのではないでしょうか。
更には、神様よりも人の評価の方が気になって、虚飾を施す行為となり、それによって人々から高い評価を受けるといばりくさり、終いには神様から高い評価を受けるに相応しい者となったとの思い込み(傲慢)に進みます。
主イエスは、この傲慢こそが人を神様から遠い存在とする罪の元凶であることを教えて居られると解されます。

 

主イエスは

「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。(マタイ23:11)」

と謙虚であることを勧めています。

他者から立派な人との評価を受けたいとの思いは誰の心の中にも起こるものですが、その思いは強くなると神様より人の目を気にする者へと人を変貌させ、偽善者を作り上げてゆきます。この戒めは決して他人事ではありません。律法学者とファリサイ派への警告はそのまま私達へのものであることを肝に銘じるべきでしょう。主イエスはファリサイ人を例に挙げ人間が陥りやすい間違いを指摘されているのだと思います。