第38話 社会的弱者に寄り添われた主イエス

2014年1月22日

主イエスの活動を聖書から見てみますと、教えを説かれた時その場に集まった群衆の中にいた、或は移動中に道すがら出会った病者や障がい者を癒されたことが、また悪霊にとりつかれた人から悪霊を追い出し、正気に戻されたりされたことが沢山書かれており、これらは癒しの奇跡という形で記述されています。

現代人にはこれらの奇跡に関する聖書の記述は記した人の意図とは反対に信仰の助けとなる前に、大きな障害となっているようです。

「聖書を読むとイエス・キリストの言葉には共感できるのだけれど、奇跡の記述を見るとエー本当ー?としらけてしまう。」という方が少なくありません。また、「聖書の奇跡物語は絵空事のように聞え嫌いだ」という障がい者の方も居られました。

では主イエスが働かれた現場では実際にはどの様なことが起こったのでしょうか。

福音記者達はこのような記述を残すことで、読む人に人間イエスが本当に神の子であった、メシア(救い主)であったことを伝えようとしているわけですが、このような奇跡を行えた方だから、すなわち自然法則にしばられない超能力を備えた方であったから、主イエスが神の子であり、メシアであることを信じなさいと読者を説得しようとしているのではないように私には思えます。

ただ、主イエスが居られるところではこのような出来事が起こったという事実、社会的弱者の躓きや困難を克服させて社会に送り出されたことを伝えたかったのでしょう。主イエスの先駆けとして準備の活動をしたバプテスマのヨハネが牢獄から、弟子を主イエスの許に使わし、

「おいでになるはずの方(メシア)は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」(マタイ11:3)

と質問させたとき弟子に返した主イエスの答は

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病人を患っている人は清くなり、耳の聞えない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい者は福音が告げ知らされされている。」(マタイ11:4,5)

でした。すなわち、このような出来事が起こっていること自体がそこに居られる主イエスがメシアであることの証だと言っておられるわけです。

しかし、自然法則やこの世の現象の因果関係をそこそこ知識として身に備えているわたしたち現代人は、聖書の記述の自然法則に即しない出来事にばかりに気がとられ、そんな不合理なことがあるはずはないと、出来事の本質を読取る前に聖書の記述そのものへの不信感を抱いてしまいがちです。

しかし、神様は天地(宇宙)を創造された方であり、自然法則を定められた方でありますから、必要があれば有を無にすることも、無から有を生み出すことも、自然法則を変更することも何でもおできになる方であるわけで、創造主なる神を信じる信仰者には自然法則を越えた出来事は躓きにはならないのです。

 

主イエスがなされたことは、病者や障がい者といった社会的弱者に寄り添われ病気、障がいがその人をつまずかせ生きにくくしている現状をご覧になって、哀れに思いその躓きの基を取り除き、これからは元気に生きていくようにと励まし送り出されたのでした。このような働きを通して、主イエスは「主の平和(シャローム)」の意味を指し示されたのだと思います。

病気、障がいに苦しまれている方からおしかりを受けてしまうかもしれませんが、実は病気、障がい自体は神様の目からみれば本質的な問題ではなく、人間にとって体(精神的な障害も含めて)が健康であることより、霊(心)が健康であること、すなわちその人が内的に成長してその人となることの方が重大事であります。そのために主イエスは躓きの基を解消する癒しの奇跡を行われたと小生は理解します。

しかし、わたしたちには、主イエスのような癒しの奇跡は行えません。神様は人間に、病気、障がいをたちどころに治癒させる超能力をお与えにはなりませんでした。それは人を神の形に作られた神様のご意志であるように思えます。もし、そのような能力を人にお与えになり、この世から病気や障がいを始めとする困難が一切なくなったとしたら、人は成長できないものとなってしまうのではないでしょうか。

御心であれば神様ご自身が奇跡をおこなわれます。人の手を通して行われることもありますが、それは決して人の業ではありません。大切なことは、健常者の中に障がいをもった方が居られるという事実に、人間がきちんと目を向けることであるように思えます。健常者と障がい者が共に社会にある中で、障がいという問題に人が与えられた能力と心を用いてどの様に対応するか、その姿勢が神様から課題として与えられているのではないでしょうか。

 

キリストの教会は長い歴史の中で、直接的な宣教活動だけでなく、医療事業や福祉事業に関わってきました。神様の御助けを祈りつつ、自然法則の下で人間に与えられた能力と人を愛する心を用い科学的研究成果をもって医学を進歩させる医療事業に、不自由な生活を強いられている方と他者が互いにもてるものを分かち合う形で福祉事業に携わってきました。これは主イエスの生き様にならい、人を生き難くさせている状況があるならば、これを何とか克服し、人が人として健全に生きていくように社会的弱者に寄り添われ勇気と希望を与えた主イエスの働きに教会が倣ったものであるといえると思います。