第39話 キリスト・イエスはイスラエルに使わされたユダヤ教のメシアか?

2014年2月7日

主イエスはユダヤの国に生まれ、其処に住んでいるイスラエルの人々に神の国を伝えましたが、その理由は第36話で述べましたように、イスラエル民族ほど日々の生活の中で神様を意識していた民族は他になかったから、その地を選んで降誕されたものと思われます。では神様の御意志は当時の世界で、最も神様に関心を寄せていた人々にメシアを送り、その人々の宗教(ユダヤ教)を完成させ、彼らを救うことにあったのでしょうか。必ずしもそうであったとは言えないように思えます。事実、ユダヤ教はイエス様を拒否し、強引に処刑してしまいました。イスラエルが待ち望んだメシア像はユダヤの国のローマ帝国からの解放と独立を実現される方であり、主イエスが果たされたメシアの役割は人間の罪を贖う神の小羊となると共に、人に悔い改めて福音を信じることを教え神様の下に立ち帰らせることでした。ユダヤ教の指導者やユダヤの民衆が期待していたメシア像とキリスト・イエスの実像とは大きなズレがあったのです。

さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、 「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」 そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。 (マタイによる福音書8章1~13節)

ここで、主イエスはこの百人隊長について「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と感心して居られます。ところで、この百人隊長が認識する神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であったのでしょうか。ローマ軍の下士官であった彼がモーセの律法に基づくユダヤ教の信仰を持っていたとは考えにくいことです。彼の神概念はもっと素朴で、自分たち人間を超え、この世の森羅万象を御手のうちに治められる絶対的存在ととらえていたのではないかと推定されます。その彼が、貧しい者が福音を聴かされ、病人や障がい者が癒され、社会から疎外されている人を一人の人として受け止められる主イエスの行動・御業を見聞きし、この人は神から遣わされた方であると直感的に理解し、認識したものと思われます。ですから、わざわざ家までお出でいただかなくても、神様から送られた方である故に、意思表示さえお示しくだされば、神様に通じことは成就されると確信したのでしょう。この素朴で純な異邦人の信仰心を主イエスは褒めました。
この聖書の記述から考えますと、主イエスは決してイスラエルの民のメシアとして降誕されたのではなく、人類のメシアとして受肉されたと解されます。ですから、初代教会時代には聖パウロ達が召され、異邦人伝道が展開されたのは当然の成り行きであったといえるでしょう。そして、初代キリスト教は次第にユダヤ教との距離を広げて異なる宗教への道をたどることとなったのでした。ユダヤ教の信仰だけでなく、個人の心に根差した純粋な信仰心を認められた主イエスの御心を小生は注視したいと思います。ユダヤ教に限定されない素朴で純な人間の信仰心を大事にしてきたキリスト者の群れも、その後、ローマの禁教令が解かれ、国教化されるに従い、次第に世俗化・組織化が進み、キリスト教という一宗教としての道を歩みだしてしまったように思えます。主イエスの福音を知らない他宗教とその信仰心を頭から否定するキリスト教会の姿勢を見て、主イエスは、神様を信頼して歩む非キリスト者を立たせて「はっきり言っておく。キリスト者の中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」といわれるかもしれないことを今日のキリスト教会は心しなければならないと思うものです。