第51話 国家と平和について

2016年11月20日

日本人が挙げる幸福の三要件は健康、財産、そして家族の和であるとのことですが、戦争状態であったり、治安が悪く、生命の安全が確保できない状態では、たとえ健康、財産、そして家族の和が満たされても幸福とは言えませんから、生きている環境が平和で安定していることが、それよりも優先事項になるかと思います。私たちの国日本は第二次大戦後70年にわたり、戦争放棄を謳った平和憲法の下での外交関係をもち、平和を維持してきましたから、その中で私たち戦後育ちの日本人はこの状態が当たり前と考えがちですが、世界的には決して当たり前のこととは言えません。私たちは恵まれた環境の故に、平和であることの重要性について意識が鈍くなっているように思えます。

 

なぜ人は、人と人とが殺し合う戦争をしてきたのでしょうか。正常な人間であれば、殺し合いが好きということはないはずです。人が人殺しをする原因は人の欲が絡んでいるケースが多いようです。手に入れたいものがあり、それを邪魔する者がいればそれを制して自分のものにしたいという欲です。極端な場合競争相手を殺してでも、ということになります。国が行う戦争の場合も基本的には同様です。国が豊かになるために、資源が眠る領土を獲得したり、広げたい、その領域での利権を得たいとの欲が働くのです。日本は明治以来、鎖国を解き国際社会に出て外国との交流を始めましたが、先進欧米諸国に追いつき追い越せの一念で富国強兵政策を国の基本方針と致しました。

 

資源に乏しい我が国は、国を豊かにするためそれを近隣国に求め、まず清国(当時の中国)に戦いを挑んで植民地を保有する欧米列強と同様の利権を獲得しようとし、次に、当該近隣国での利権を競ったロシアと戦ってこれを抑え、兵力を近隣国に進めて侵略しました。この時、恐ろしいことに、私たち日本国民は、この出来事について「やったやった」と皆大喜びしたのです。一人の人間としては、たとえ、どんなに欲しいものであってもそれを隣の家に押し入って力ずくで奪ってくるなどという暴挙はするはずのない人達が、国がそれをしたことに何のためらいもなく喜ばしい出来事と是認したのでした。人ではなく、国の行為となると善悪の基準は違ってくるのでしょうか。

 

ある国が侵略行為に出た場合、当然にそれを阻止しようとする国と戦争になります。そうなると両国は兵隊を戦場に送り、それぞれの主張を通し、目的を果たすため兵と兵に殺し合いの戦いをさせます。戦場では兵士個人の意思は抹殺され、国益のためと称して国家権力によって殺し合いが強要されるのです。この状態となりますと、もはや個人の抵抗は不可能です。歴史上に国という形態がとられて以来、現在に至るまで人間社会はこれを繰り返してきました。個人同士は全く遺恨がなく、それぞれは愛する家族を持った純朴な国民でありながら、兵士たちはお互いに殺し合わなければならないという地獄を経験させられました。そのような経験をした兵士たちの中には、運よく生き残っても一生精神的な障害を負って生きているという事例が数多くあります。誠に残酷で、決してあってはならぬことであります。

 

人は天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、おのおの安楽にこの世を渡ってよいのだと福沢諭吉は言いつつも、「互いに人の妨げをなさずして」を条件としています。他者を押しのけて、或は他者を殺してでも取得してよいわけではないはずです。

 

国というものは時としてエゴをむき出しにした化け物となる可能性を秘めたものであることを、私たちは肝に銘じておく必要があるように思えます。社会心理学者は、集団になると、人は個人としてはするはずもない、暴力的で狂気な行動に走ってしまうことに着目し、これを群集心理(集団心理)と呼んでおります。国が暴走を始める前に、日本国民である私たちは主権在民の責任として国のエゴ(ナショナリズム)を抑制し、他国と平和の内に共存する道を探すと共に、国政の手綱をしっかりと握っておく必要を痛感いたします。

 

What do you think?

コメントを残す