第56話 自然科学では宗教の本質を解明できない

2017年8月14日

主イエスが活動された当時のユダヤの地では、人々は神様の存在を認め、日々神様を意識して生活していました。そのような人々に対して、主イエスは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と宣教の第一声を発せられたのですが、今の私たちの日本では、神様の存在そのものを否定したり、無関心である人が大多数を占めていますから、この言葉から、宣教活動を始めることは無理があるように思えます。

神様は存在するのかとの問いに、昔の人は科学的知識を持たない無知であったから神様の存在を信じていたのだ、自然科学が発達した現在において神の存在を論じることは非科学的だと考えている人が相当数いるようです。その方たちは「昔の人は何故太陽が東から登り西に沈むのか、一年の季節は春夏秋冬と巡るのか、月はどうして日々形を変えそれを定期的に繰り返すのかさえ、理解していなかった。しかし、我々は科学の進歩によって、太陽も地球も星もほぼ球形の形をした天体であって、地球は太陽の周りを自転しながら公転し、月は地球の周りを回っていること、更に、太陽は光と熱の源であって、3つの天体の動きと位置関係からこれらのメカニズムをみごとに解明しました。今日ではビッグバン理論、つまり『この宇宙には始まりがあって、爆発のように膨張して現在のようになった』とする説にまでたどり着いており、神様の天地創造など、お伽噺に過ぎない。」と考えているようです。勿論、私も創世記の天地創造の記述を文字通り理解しなければならないと主張するつもりはありません。この天地創造物語は象徴的に理解すべきものであり、人が生きる場と人間を創造された神様の業を見事に表現したものであると認識しています。

小生は大学ではまがりなりにも物理学を専攻し、社会人となってからは特許という自然界の現象を扱う技術の世界で仕事をしてきました。ですから自然科学の確かさ(因果関係に基づく現象の再現性)を信じ、人間の英知を結集した技術の発展を指向してきた一人に他なりませんが、自然界の物理的存在と、神の存在(すなわち霊的存在)とは全くの異次元の存在であると確信しています。その事実は人の身長や体重、体温や血圧など物理量といえるものは計測器によって測定することができますが、人の心の状態、例えば「愛」の深さというものはメジャーでも温度計でも測ることはできないことからも理解されるように次元の異なる事柄であるからです。いやそうとばかりは言えない、うそ発見器というものがあり、人の心の状態だって物理的に判定できるではないかという方があるかもしれません。しかしこれは、嘘か真実かの心の状態を直接判定しているわけではなく、心の状態に影響される血圧や心拍数の変化、脳波や声紋を測定して、間接的に嘘か真実かを推定する装置でしかありません。自然科学にははっきりした自然界という対象領域があり、決してあらゆる分野で万能というわけではないことを認識することが大事であろうと思います。たとえビッグバン理論によって天体の誕生の現象を解明できたとしても、それは決して自然法則を超越して無から有を生み、時間と空間の世界を作り出した天地創造の本質を解明するものではありません。神の業と自然科学が扱う事象とは異次元の事柄であるというべきです。

この世において人間は肉体をもった物理的存在であると同時に心の機能(人格)を備えた存在でありますから、自然界のメカニズムを解析する自然科学によって霊的存在でもある人間の存在そのものをトータルに解析することは不可能であると思慮します。

 

しかし、日本人に限らず現代人は自然科学が発達した社会の中で育ち、自然科学の確かさを認め、その世界に信頼をおいて生活しています。物の存在等、物理量は五感(視覚、聴覚、触覚、臭覚、味覚)によって感知でき、たとえ、五感で直接感知できなくても分析結果として確認することができることを熟知としています。この世の諸現象については物理的に解析することによって、自然法則に基づいて説明ができるようになりましたし、法則に基づいて事象の再現性も確認されています。この世の現象は概ね客観的な証明が可能な事柄であるといえます。これに対して、神様の存在や神様や人間の愛というものを扱う宗教の世界は自然科学的手法で検知できるものではなく、基本的には人間の感性によって感じ取れるものです。しかし、その感性なるものには個人差があり、同じ状況に有っても感じ取れる人もいれば感じ取れない人もいるわけです。客観的な証明ができる世界とは別次元の世界です。自然科学の確かさを知った現代人にはそのような不確かな宗教の世界を素直に受け止められないようになっています。

キリスト教信仰の核心はメシアとして誕生された主イエスの受肉と、贖罪としての主イエスの十字架の死とそれを超越した復活にあります。教会はこの出来事によって人類に対する神様の最高の愛が示されたと宣言します。しかし、主イエスの受肉は聖霊によって身ごもった処女マリアからの誕生であり、人性を取られた主イエスは十字架刑を受け確かに死にましたが、三日後に復活され、そのみ姿を人々に示されたと伝えられています。「処女降誕」とか「復活」という現象は自然科学を学び、それに信頼を置いている現代人には、自然法則に反する受け入れ難い事柄であるととるのは無理からぬことといえます。そのように考える人々に伝統的な教理(ケリュグマ)を直接的に伝えることは無理があるというより、不適切であり、不親切でさえあると小生には思われます。そのような宣教手法は、人々にキリスト教信仰を伝えるというより躓かせているというべきかもしれません。

では、現代に生きるキリスト者は、この「処女降誕」とか「復活」という現象をどの様に受け止め、信じているのでしょう。それが自然法則に即しない現象であることが分かっていながら、何故現実に起こった出来事と信じられるのでしょうか。それは「神様には何でもできる。」との信仰がキリスト者にはあるからではないかと思いますが、では「神様には何でもできる」というその信仰は一体何処から得られたのでしょう。現代に生きている私達キリスト者が、その様な信仰に至ったプロセスを証することが、自然科学が万能であるかのように錯覚している21世紀の人々に対する宣教には欠かせない要件となるように私には思えます。

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