さて、教会が大事にしている朽ちない存在「霊なる命」という概念は分かり難いという方がおられるかと思います。そこで、人間の構成について少し考察してみたいと存じます。人が体と魂(精神/心)を備えた存在であることはどなたにも認めて頂けると思いますが、この魂について平易な表現を試みれば、その人自身の意識、人格そのものを意味しているといえるかと存じます。肉体はいずれ朽ちるものですが、魂は朽ちることはないかといえば前述したようにそうではないと思われます。その魂の中に神の形としての霊なる存在が芽生えていなければ体と共に死ぬ運命にあると言わなければなりません。死んだ後その人が、生きているか死んでいるかが判定されるという「最後の審判」というキリスト教の教義はそのことを教示しているのだと思います。では死んだあとの私達人間の存在はどうなるのでしょう。こんなことを考えると「愚かな人だ。(コリント一:15-36)」と聖パウロに叱られてしまうかもしれませんが、これは人間の大いなる関心事であり、永遠の疑問ともいえます。

主イエスは、復活する人間について「復活の時には、めとることも、嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。(マタイ福音書22章30節)」と述べておられます。ということは、天の国では結婚ということ、すなわち男であるとか、女であるとかいう性別、男女が一緒になって家庭を築くということはなく、ただ、個々の人格が神様のもとで御用を果たしながら共にいるということかと推察されます。

教会は「体の甦り」ということを使徒信経にも謳い信じています。ただ、ここでいう復活する体とは今の私たちが備えている肉体とは異なるもののようです。この世を去った後の体とは一体どんなものなのでしょうか。誰も経験したことがないので確かな説明は教会といえども不可能でしょう。ただ唯一その手がかりはご復活の主イエスにあります。そこで、復活された主イエスの有り様を聖書の記述から検証し、死後の体について考察してみたいと存じます。

マタイ福音書28章、マルコ福音書16章、ルカ福音書24章そしてヨハネ福音書の第20章の記述をみると、復活の主イエスは目に見える形で人々の前に現れ、そして言葉を発しておられますが、この言葉は通常の会話というよりは、メッセージを述べているというように感じます。また、ガリラヤで漁師の弟子たちと朝食をとられたことが伝えられています。人の目に見え、食事までしたということは物質からなる肉体のようにも思えますが、戸に鍵をかけていた家の中に現れ、また消えたということ、使徒言行録が皆の見ている前で天に上げられ雲の中に消えていったと伝えていることを勘案すれば、目には見えても肉の体ではないことが推察されます。また、エマオ途上の道ではそれが主イエスとは分からなかったが、食事の際にはっきりそれが主イエスであると認識できたこと、そしてその後姿が見えなくなったとあり、ガリラヤ湖でもペトロは「舟の右側に網を打ちなさい。」といった人が当初主イエスであることに気づきませんでしたが、多くの魚が獲れた時、はじめて主だと気付いたのでした。これらのことからも、復活された主イエスの体は私達人間が備えている肉体とは異なっていることが理解されます。

そもそも、主イエスが復活のみ姿を弟子たちをはじめとした人々に目で見える(人間の五感で感じられる)形をもって示されたことには、その必然性があったと小生は理解します。3年にわたって教え導いた弟子たちにしても、十字架の時を迎えてなお主イエスが父なる神様から託されたメシアとしての役割の意味を全く理解できていませんでした。主イエスの十字架の死はメシアと信じてついてきた方がこの世の権力に捻り潰された敗北であったとしか受け止められませんでした。メシアであるはずの方が何故こんなことになってしまったのか全く理解できず、混乱のうちに絶望のどん底に落ちていました。そのように神の御心を全く理解できないでいる物わかりの悪い弟子(人間)達に、神様はその一人子を給うほどに世(人間)を愛されていること、そして神様を信頼して歩む者にはこの世の死は人の消滅ではないことを何等かの形で示す必要があったのだと思います。そこで、人の目に見える形で、ご復活の主イエスを人々の前に現されたものと推察されます。そもそも神様は無から天地創造をなされた方ですから、何でもできる方ですが、普段は人の目に明らかな形ではこの世の自然法則を変更するようなことはなさらないように見えます。しかし、この場合は、人間に神様とのあるべき関係を回復させるために、本来は目には見えない霊なる体を目に見える形で示すサクラメンタルな手法で人間に示されたものと小生は理解します。多分、人は神の国では物理的な識別ではないものの個々が互いにパーソナルな関係で認識し合える天使のような存在となるのではないかと推察されます。

 

また、聖パウロはコリントの信徒への手紙一15章で死後の体について次のように記しています。

「天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」

「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」

「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」

以上の記述から、聖パウロは復活した体は「霊の体」であり、その体はこの世における肉体の体とは別のもの、すなわち、朽ちるべきこの世の存在の上に朽ちない衣を着せていただく新たな体と理解しているようです。世を去って眠りについた者は最後の日に一瞬のうちに霊の体に変化するといっています。

この記述から推察されることは、人がこの世を生きる中で神様と出会い、洗礼を受け(悔い改めて)福音を信じて歩む中で、魂の中にたとえ神に属する霊が育っていたとしても、それがそのまま霊の体になるのではないということだと思われます。人の目にはどんなに立派に見える人でも、神様の目からは不完全な存在でしかありません。その朽ちるべき存在に朽ちないものを着せていただき終わりの日に神の国に受け入れられるということでしょう。そして、その朽ちない衣とは、主イエスの十字架の贖いと復活の恵みということかと存じます。

以上のまとめとして小僧の70点解説をいたしますと、復活する霊の体とは、二義的存在である物質(肉体)は滅びるが意識の主体である霊は不滅で存在し続けるというヘレニズムの二元論の霊とは全く別の内容で、聖霊に導かれて育った私たちの不完全な霊の上に、主イエスの十字架の贖いと復活の恵みの衣という人間への神様からの大いなるプレゼントを着せて頂いた体であると理解されます。