第59話 脳の精神活動と霊なる自己

2017年8月19日

人は歳を取ると体が老化していくことは歴然とした現象であるといえます。脳も例外ではありません。高齢となって痴ほうの症状が出ると、その人の人格そのものが変わってしまうように見受けられることがあります。唯脳論を唱える解剖学者の養老猛司氏は、あるとき、「人が死んだ後も霊魂は生き続けるなどという人がいるが、老化して脳の機能が低下してくると、人格そのものが変化する。その人の霊なる存在とは一体その人の何歳の時の人格を特定するのだろう(特定のしようがないではないか)」と話しておられたことを思い起こします。この様な発言をされるということは、養老先生は「霊(人格)とは脳の機能そのもの」であると考えておられるのでしょう。確かに、人はこの世にあるときには、心の働きは脳を介して行われ、心と体は一体不可分の関係にあります。

脳の機能についての現代科学の解析について少しふれておきたいと存じます。人体には全身にわたって神経系統のネットワークが張り巡らされており、体の各種情報は五感をはじめとするセンサーによってその部位の状態を検出してその情報を電気信号とし神経系統のネットワークを介して脳に送るようになっている。脳は構造的に前頭葉、側頭葉、頭頂葉、後頭葉、島葉、辺縁葉という6つの葉から構成されており、その脳葉と機能との間には明確な対応関係はないとされるが、各葉の担う機能についてある程度特定されているようで、前頭葉は運動に関わる領域、発話に関わる領域、計画などに関わる領域とされ、側頭葉は聴覚に関わる領域、視覚中の対象の情報、頭頂葉は体性感覚に関わる領域、視覚中の対象の位置情報、後頭葉は視覚に関わる領域、辺縁葉は情動に関わる領域、記憶に関わる領域(海馬)、そして島葉は痛みの体験や喜怒哀楽や不快感、恐怖などの基礎的な感情の体験に重要な役割を持つとされている。脳に送られた情報信号は脳内の各葉を駆け巡り信号処理を行い、その処理した結果情報を対応部位に神経系統を介して送り返し、対応処置を行うようになっているとのことである。例えば、歩行中に視覚によって障害物を感知すれば、それを避けて通るように足の筋肉に指令を出すといった次第である。知性,感情,意志,意欲,創造力といった人間の知的・精神的活動は前頭葉が主たる機能を担っていると言われ、人間の心も脳という臓器を駆使して機能していることは確かな様である。したがって、脳が老化若しくは病気によって正常な機能を果たさなくなると、人の知的若しくは精神活動にも支障が生じ、対人関係においては人が変わってしまったように見えることもあるし、脳死に至れば人としての諸機能は完全に停止し、生物学上は死んだと認められる状態になります。「人格とは脳の機能そのもの」であると考える養老先生のような方は、肉体の死をもって人格も消滅すると考えるのでしょう。確かに、脳死によって体内で行われてきた知的・精神的な活動は停止しますが、はたしてその活動を通して形成されたその人の人格(霊)までが消滅してしまうのでしょうか。

人は人生を歩む過程で脳の活動を通して人格を形成してゆきますが、その活動によって形成された人格は物質の領域にはないと思います。脳の機能は物質内の電気信号の伝達、信号処理という物理学的現象と見做せますが、その機能を通して形成された人格は物質の世界に属するものではないと理解されます。他者を思いやる「愛」なる心を備えた人格は、脳の活動現象そのものではなく、それを通して形成された作品としてべつものとなると思えます。例えば、AI(人工知能)を開発して、それによって動くロボットを人間に似せて作り上げたとしましょう。そのロボットは人と挨拶を交わし、また、人の状況に合わせて反応し、優しい言葉や行動をとってくれるかもしれません。しかし、そのロボットはあくまでも人間もどきであって、愛の心をもって行動するわけではありません。愛を持った人間をモデルにして反応パターンが記憶蓄積され、その蓄積情報に基づいて状況に応じた反応行動が選択され、ロボットとして行動が起こされたり、言葉を発したりします。ロボットは一見愛の行為を実行しているように見えたとしても、それは特定されたその行為を機械的に実施しているだけで、愛という人の心に根差して行動を起こしているのではありません。私は私であるという自覚、その私は何を大事にするか、他者を思いやる「愛」なる心を備えた人格は、脳の活動現象そのものではなく、それを通して形成された作品であり、霊なる存在であると私には思えるのです。この世にあっては、人格も肉体と分離することはできませんが、その人格は物質たる肉体ではなく、人生を歩む途上にあって既に霊として存在していると思われます。アーチストの脳の機能が衰えたり、脳死状態となって新たな作品が制作できなくなったとしても、既に作成された作品が残るように、生前に脳活動を通して形成された人格(霊なる存在)は作品であるならば、脳死によって消滅してしまうものではないと思います。

私は、今日までに何人かの先輩たちを見送る経験をしてきました。その際に、老化によって脳の機能が低下し、対応がおぼつかなくなり、記憶が徐々に失われていく様を見て、私はこの人の体から魂が抜け始めている、この世を去る時が近づいていると感じますが、その人の人格(霊なる存在)が変貌してしまったとは思えません。また、人が精神病例えば双極性障害(躁うつ病)を発症している場合、因果関係がなく不自然に気分が高揚したり沈み込んだりし、対人姿勢や行動パターンが普段と違ってきます。この場合も周囲には人が変わってしまったように見え、本来のこの人の人格はどうなってしまったのかと、戸惑うことがありますが、この原因は脳内因子の異常分泌によって、脳の機能が錯乱された状態であると推定されることから、これは病的症状が出ているのだと理解すべきでしょう。痴ほうや病気によって脳の機能に支障をきたした人について、周囲の人に肉体を通して見えるその人は焦点がぼけた像を見せられているのであり、その人の実体(人格)は内なる奥にシフトしているのだと私は理解しています。その人の目に見える態様はモニターを見ているようなもので、実はその人自身を見ているのではないといえるのではないでしょうか。

要するに、私は脳の機能と霊(人格)とは別のものと理解しています。ですから脳死は人格(霊なる存在)の消滅とはならないと理解します。ただし、キリスト教の信仰によれば、へレニズムの二元論のように肉体は滅んでも霊魂が生き続けるというのではなく、神の愛の下でキリストの体に連なることによって生き続けるとされています。

ところで、人なる存在はこの世の人生においては人格(心/霊)と肉体とが不可分一体のものでありますから、脳に障がいがあったり、病気の状態にある場合には心が正常に機能しないということになると思われます。とすれば、知的障がいを持って生まれた人は人格的成長が難しいということになり、これはあまりに酷であり、人生の機会均等がなされていないと考えてしまいます。

脳に限らず生まれつき身体に障がいを負った人もおられます。主イエスは生まれつき盲目であった者について、それは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がその人に現れるためである。」と言われました(ヨハネによる福音書9章3節)。脳の障がいについても同じことになるのかもしれませんが、体の機能を越えて人格・心に直接関係しますので、事は一層深刻でありなかなか難しい問題です。ただ、脳の障がいの故に人格的成長が難しい人であっても、一生懸命に物事に取り組む姿勢やその製作物などを拝見して私たちは大きな感動を受けることがあります。一般的な行為が稚拙であったとしても、障がいを持っているにもかかわらずなされるその行為には神の業が現れたと感じさせられることがあります。私は、人は人格的成長をし立派な人物となることによって救われるのではなく、神様の愛、恵みによって生かされるのだという主イエスの教えから、人の神様との関係においては、神様への信頼が重要であって、人格が立派であるということが問題とはならないということがこの難問を解く鍵となるのではないかと思います。

 

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