第12話 神が人を愛する方であるならば何故人に苦しみを与えるのか?

2009年7月5日

時として、私達の周りには[不条理]としかいいようのない出来事が起きます。

例えば、2003年ニューヨークで起きた9.11テロの犠牲者や、2005年の福知山線脱線事故の犠牲者などたまたまその場に居合わせた人が非業の死を遂げたことなどである。

天災や人災に巻き込まれるなどどう見ても本人の責任でない不合理な死に直面し、その家族にとっては納得しようのない現実の前で、神も仏もあるものかとの心情になる。

これも基本的に因果応報の考えが根底にあるように思われますが、心情としては痛いほど理解できます。

私も実際に、福知山線脱線事故の直前に25歳になったばかりの甥を交通事故で亡くすという出来事を経験しました。

原因はダンプカーを運転していた人の不注意によるもので、人生これからという若者の死にはなんとも納得のいかないものを感じました。

親・兄弟の思いはいかばかりかと慰める言葉も出ずそのときはただただ断腸の思いでした。

神が人を愛する方であるならば何故人にこの様な不条理な仕打ちを行うのか、苦しみを与えるのか?という率直な疑問が生まれます。

この事象を見て無神論者は「それ見たことか神様なんて存在しないのだ」ということでしょう。

確かに、現実に起こる不条理としかいいようのない事象の過程で、救いの手をさしのべることのないように見える神様は何もしない冷酷な存在、無いに等しい存在のように映ります。

人には理解し難いこの事柄をキリスト教会はどのように説明できるのでしょうか。

この難問、神のご意志を人間のこざかしい知恵で解明しようなどと思わない方がよい、疑問は疑問として直接神様にぶつけるのが人間らしいと思うのですが、小生はこの問題について次のように考えております。

「人は神の形に作られた。」そして、「神はこの地上の管理を人に任せられた。」

との聖書(創世記)の言葉を思いおこすとき、人を神の形に作りこの世界の管理者とされた神様は、人間の行動には無闇に干渉しないとのご意志が働いているのではないかと思われます。

神様は人を意のままに動く自らの操り人形として造ることはなさいませんでした。

人には自由意志なるものが与えられ、神を否定しその御心に背くことすら可能である存在として造られています。

もし人の心がすべて善を行うように、間違いを起さないようにプログラムされていたならば、人の善き行いにはなんの価値もなく、ただのロボットが行う味気ない作業でしかないでしょう。

神様は聖霊によって人の心へ働きかけ愛の行為を促し、正しい道への方向を示されるが、行動を直接コントロールされることはなさらない。

人の管理に任せられた地上のことには直接手出しをしないとの決意をもって、人間が自ら考え、管理運営しより善い人間社会を形成することをひたすら希望しながらじっと見守って居られる。

神様は、有史以来繰り返されている殺人、戦争、欲望行為、残虐行為、そしてそれらの犠牲者が生み出される不条理と思える様子をみつめつつ、お前達はまだ気がつかないのかまだ繰り返すのかと悲しみをこらえて我慢して居られるように私には感じます。

困難な状況の中でも何も助けて下さらないように見える神の存在ではあるが、自ら感じ、自ら工夫し、自ら努力して善い人間社会を作り上げることをひたすら願いつつ、じっと忍耐して見守って居られる。

それが地上(宇宙)を人の手に委ねられた神のご意志なのではないかと小生には思えるのです。