第14話 生まれながら障がいを負った人のことを思えばやっぱり神様は不公平

2009年7月19日

え!質問ですか。お答えできるかどうか分かりませんが何でしょう。

「生まれながらに障がいを持った人がいるけれど、このケースなどは、いわば呪われた存在のように世に送り出さたようにみえてしまう。神様はやっぱり理不尽ではありませんか。」

おっしゃるとおり、人生の出発点で既にハンディーを背負わされた人がいます。本人は一生そのハンディーを背負って人一倍の努力を強いられ生きていかなければなりません。確かに、人の目にはこれは不公平と見えてしまいます。その方の親にしても、生まれてきた子供が障がいを持っていた場合、その思いは如何ばかりでしょう。神様を呪いたくなるのも無理からぬことと思えます。この難しい問題については聖書にも記述があって、イエス様は次のように答えておられます。

「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』」(ヨハネの福音書9章1-3節)

弟子達は昔から言い伝えられているように「障がいは神の罰」に違いないと考えたようで、生れつきというのは本人の前世の罪が原因か、親(先祖)の罪が原因の罰なのだろうかと疑問に思い、イエス様に尋ねたのである。しかし、イエス様の答えは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」でありました。では「神の業が人に現われる」とは一体どの様なことなのか少し考えてみたいと思います。

さて、皆様は乙武洋匡さんという方をご存知でしょうか。氏が大学在学中に出版した自伝『五体不満足』は500万部を越す大ベストセラーになり、その後今日に至るまで相当数の販売実績を続けているそうである。

先天性四肢切断(生まれつき両腕両脚がない)という重い障がいをもって生まれた方であるが、都立戸山高校を経て早稲田大学に進学する。

大学時代に早稲田のまちづくり活動に参加し、このまちづくり活動を取材したNHKの番組出演がきっかけとなって、障がい者としての生活体験をつづった『五体不満足』を執筆することになったとのこと。

氏は障がいを負っていることをものともせず「障がいは不便です。

しかし、不幸ではありません」ときっぱりと明るく言い切る。

これは軟弱な健常者である我ら凡人が圧倒されてしまうなんとすごいメッセージではありませんか。

この様な氏の有り様を見て私は「彼の上に神のわざ(栄光)が現われている」と実感した。

脚がないから歩けない。電動車椅子を使って移動しなければならない。この現実はどう見ても不自由である。

にもかかわらず、本人はその事実を不幸と思って悲観するところがない。

自らの障がいに目を背けることなく現実をあるがまま受け入れてそこから出発して居られる。

そのように前向きに生きる姿勢の中で、負の遺産を持たされたと思える現実が見事にプラスの財産に変換されている。

身体的には障がいを負わされているが、氏の人格、霊なる存在は至って逞しく、大きく成長して居られるのである。

人はこの世においては体と霊(人格)とからなる存在であると申し上げました。

そして、体は障がいの有無にかかわらずいずれ生物学的な死をもって朽ちていきますが、そのとき大事であることは人生において刻んだその人の像、すなわち霊(人格)であります。

これこそが、神様の目から見た関心事であるのです。

勿論、すべての障がい者の上に神のわざが現われる訳ではありません。

障がい者として生まれた我が子を見て親が悲観し、親が子に適切な愛情を持って育てられなければ子供は健全に育ちません。

最近育児ノイローゼから、我が子を殺害してしまうような不幸な出来事が頻発していますが、このような親の対応ではその人の上に神のわざ(栄光)が現われることはなく、悲劇を招くことになってしまうことでしょう。

しかし、乙武洋匡さんの場合、親御さんの対応はいわゆる世間で言うところの障がい者への対応という感じでは全くなく、基本的に健康な子供として育てられたようで、何ともすごい親御さんであったと感心させられます。

このことを氏自身「重度の障がいはあるけれど、まずは両親に恵まれ、先生方、地域の方々、そして友達に恵まれたからこそ、卑屈にならず、前向きに人生を歩んでくることができました。」と感謝して居られる。

そして、氏は2003年に、長崎で起きた当時12歳の少年による園児誘拐殺害事件について「凶悪犯罪の低年齢化だ」「酒鬼薔薇の再来だ」といったものばかりの報道に対してすごく違和感を持ったと語って居られる。

それは、「周りの大人たちは何をしていたのか」という視点が大きく抜け落ちてしまっているように感じたからと本質的な鋭い指摘をされている。

子どもは大人や周りの環境で大きく変わっていくものだと気付いたときに、改めて自分はすごく恵まれてきたなと思い、自分が得てきたプラスの部分を、今度は僕から子どもたちの育つ環境に還元したいと教育者の道に進んだとのことです。

負の事象と思える障がいが、その現実にきちんと向き合って懸命に生きるときその障がいは本人だけでなく周りにいる人々へも多くの学びと深い感動とをもたらせるものであること見せて頂きました。

改めてこの人の上に神のわざが現われたと私には思えるのです。

「神の力は弱い所に完全にあらわれる」。(コリント人への第2の手紙第12章9節)