第15話 新約聖書と旧約聖書

2009年7月26日

キリスト教には聖書という教典があることは、日本人によく知られているといって良いでしょう。

その聖書には旧約聖書と新約聖書と二種類あることも周知されているようです。

では、旧約聖書と新約聖書の違いはとなると旧約聖書は旧教(ローマカトリック)の聖書で、新約聖書は宗教改革によって生まれた新教(プロテスタント)の聖書であると思われている方が案外多いようです。

しかし、それは間違いです。

旧約聖書はキリスト教成立前の書物、すなわち、キリスト教誕生の基礎であったユダヤ教の文書なのです。

これに対して、新約聖書はキリストの復活後にキリスト者によって書かれた文書がまとめられたものです。

旧約とか新約という言葉が使われていますが、これは神とその民との間に結ばれた古い契約、新しい契約という意味を持っています。

旧約聖書には全39巻の文書が、新約聖書には全27巻の文書が編纂・収録されております。

旧約聖書は大きく分けてモーセ五書 (ユダヤ教ではトーラと言う)、歴史書、知恵文学、預言書、旧約聖書続編からなっています。

これらの書物はもともとユダヤ教の中で生まれたものであり、ユダヤ教、キリスト教ともに聖典としているが聖書としての構成は若干異なるとのことです。

また、イエス様の時代に「ヘレニスト」と呼ばれた外国生まれのギリシャ語を話すユダヤ人たちが大勢おり、その人達のためにヘブライ語のユダヤ教文書をギリシャ語に翻訳した70人訳聖書が存在し、初代キリスト教会ではこれを聖書として用いていたとのことです。

また、新約聖書については397年に開かれたカルタゴ教会会議で、新約聖書27文書の正典化が決められ、西方教会で定着したと言われています。

また、この27巻には4つの福音書、初代教会の記録である使徒言行録、各地の教会宛などの書簡、黙示録とが収録されています。

この2つの書物を聖書、すなわち、キリスト教の聖典とはっきり定められたのは4世紀乃至5世紀頃になってからではないか、それは聖書の多義性と各地に存在した複数の教会間の解釈の違いを解決し、神学的教義を統一するためになされたものであろうと推定されます。

ところで、キリスト教に何故、キリスト教以前のユダヤ教の書物である旧約聖書が必要なのかと疑問をお感じになる方があるかもしれません。

それは、旧約聖書の文書には神に選ばれ、導かれつつも神に逆らった道を歩んできた古代イスラエル民族の歴史が、そのまま人間の有り様、生きる姿をみごとにモデル化して表現・記録されているためであり、それらの文書はイエス・キリストによる人間の救いの必要性と意味をその背景から理解する上で、極めて有効というより必須の内容であるからと小生は理解しております。

ですから、キリスト者はこの旧約聖書の内容を単に古代イスラエル民族の歴史としてだけではなく、自らの生き方の軌跡を重ねて読み、学んでいるように思えます。

新約聖書には4つの福音書が入っています。

福音書とはイエス様の御言葉、行動を書き記すことにより、ナザレ人イエスが本当にキリスト(救世主)であったと証言することを目的として書かれたものであります。

このような福音書は聖書に収録されているこの4つだけではなく多数の人が書いており、他にも存在しておりました。

そのうち、この4つが選定され聖書に入れられたと言うことになります。

それぞれの福音書は各地の教会で選択的に使用されていたようでユダヤ人系の教会ではマタイ福音書が、異邦人系の教会ではルカ福音書が、マルコ、ヨハネは傍流教会で使用されていたといわれています。

さて、その記述を比較してみると、同じ事柄を記述している箇所が数多くあるのですが、少しずつ異なる内容となっています。

愚かにも小生は若い頃、この相違点はどちらかが間違いであろうから、教会は違いを検証し修正して内容を統一したほうが聖書の信頼性が増してよいのにと考えたものでした。

また、新約聖書の冒頭に編纂されている文書はマタイ福音書です。

その書き出しはダビデの子主イエス・キリストの系図となっていて、アブラハムから始まる代々の人名が続きます。

メシアはユダヤ黄金時代の王ダビデの末裔として生まれるというユダヤ社会の伝承に基づいて、ユダヤ人である福音記者マタイはナザレ出身のイエスがダビデの子であることを立証したかったのでしょうが、我々日本人には全く無味乾燥な記述です。

キリスト教を学ぼうと聖書を手に入れ、せっかく読み始めたもののこの系図ですっかり興味が喪失し頁を閉じてしまった人が一体何人いただろうか。

せめて、順番を入れ替えヨハネ福音書を冒頭に持ってくれば宣教的効果はよほど高くなるのにと考えたものでした。

この考えはいまでも基本的に変わりませんが、人間的な思いで聖書に手を付けないと言う教会の姿勢も大事かなと思います。

しかし、皆様にはこの箇所で躓くことなく是非先に読み進んで戴きたいと願います。

最近知ったことですが、2世紀当時、4福音書を基に統一折衷福音書を作る試みをした人がいたようですが、全教会的には受け入れられなかったとのこと。

それぞれの福音書を大事にしている各教会がそれを認めなかったのであろうと推定されます。

オリジナル文書に手を加えず、複数の文書を共存させたことは正しい選択であったと今では小生も強く思っております。

それは例えば一つの事象を複数の人が見聞し、それぞれに記録を残した場合には、細かい点で記述が異なるのはよくあることというか、当然のことです。

記録者はそれぞれの感性で事象を受け止め、それを記述しますから、強調点が少しずつ異なってくることは当然でしょう。

一つの記述からはその事象について平面的な理解しか得られませんが、視点を異にした複数の記述があるということは、複数の記述を総合することによりその事象を平面的にではなく立体的に捉えることができるという効果を生じます。

その意味で、本来のイエス様のメッセージの趣旨が変わってしまう程矛盾していては困りますが、そのようなことはなく、むしろ、複数の福音記者の強調点が若干異なると言うことによって、読者である我々に豊かな読み方を可能にさせてくれていると感じています。