第18話 キリスト教の最大のお祭り復活祭

2009年8月16日

キリスト教において最も大事なお祭りである「復活祭」について話を致しましょう。

教会が何故復活日を守り大切にするのでしょうか。

それはイエス・キリストが十字架の死を経て復活されたことにより「罪と世と悪、そして死」に打ち勝たれ、私たち人間を罪と死から開放して下さったと信じているからです。

天地創造以来の長い歴史の中で、神様と人間との間にできてしまった深い溝、すなわち、神の形に作られた人間が神の思いを忘れ、与えられた知恵と自由意志を用いて富とこの世の権力、栄誉、その他の朽ちる世界の欲望に執着し、神から遠く離れた存在となってしまった状態、そこから人間を神様の下に引き戻すためには、その深い溝を埋めるかけ橋を架けなければならない。

そのための犠牲がイエス様の十字架であるという考えです。

この話を身近な例で考えて見ましょう。

立派な人間に育って欲しいと願った親が息子を遠く離れた都会の学校に苦労して仕送りをし、通わせていた。

ところが、その息子は誘惑の多い都会生活の中で悪い友達につかまり、放蕩に身をやつし周りの人に迷惑を掛ける困りものの存在となってしまった。

しばらくしてそれに気が付いた親はどうするでしょう。

まともな人間に戻って欲しいと願う親はまず、息子をしかり、ものの道理を説いて聞かせるでしょうが放蕩が身に染みついてしまった息子の改心は容易には期待できません。

ショック療法をねらい勘当したりしても、厄介払いされたくらいに思いひねくれていくのが関の山。

反対に今までのことは水に流すからこれからは真面目にやれと、親の寛大さを示しても、そのときだけごめんなさいこれからは真面目にやりますというでしょうが、親なんて甘っちょろいものよと舌を出すのが目に見えています。

そのような状態に堕ちた息子が立ち直るためには、息子自身が過ちに気づき悔い改めて新たな歩みをする強い決意を持たなければ始まりません。

親の単なる優しさ、単なる厳しさではなかなか通じるものではないと思います。

息子に過ちを気づかせるためには親の子を思う気持ちが生半可でないこと、自ら犠牲を引き受けてでも息子を立ち直らせるのだという覚悟を息子に示すことが必要でしょう。

最も有効な手立ては悪の道を進もうとする息子の前に我が身を挺して立ちはだかることではないかと思います。

イエス・キリストの十字架の死はまさに罪を重ねた人間に対する神様の立ちはだかりではないかと小生は思っています。

自らを弱い人間の姿に宿し、生身の人間としての死の苦しみを引き受けつつ贖罪の生け贄(神の小羊)となられた。

その壮絶な姿を見て人は何を感じるでしょうか。

この出来事の前に神の御心が何であるかに気づかなければならないでしょう。

そして、イエス様の十字架の死は肉体の死をもって終わりませんでした。

弟子達や多くの人々の前に復活の御姿を現されたと聖書は記しています。

イエスに連なる者であるとしての権力者による処罰を恐れ、人目を忍んで家に鍵を掛けて潜んでいた弟子達は、自分たちの中に立つ復活された主イエスの姿を見て勇気づけられ、目が覚め、命の危険を顧みずイエス復活の証人となって宣教を始めたと聖書は伝えています。

イエス様の生涯を考察するとき、弱い人貧しい人と共にあって人々に愛を説き、多くの人々に勇気と希望を与えたとはいえ、この世の人生は死刑という結末であり、どうみても成功した人生とはいえません。

この愛の革命は失敗に終わったかに見えます。

しかし、失望のどん底にあった弟子たちの中に姿を顕されたイエス・キリスト。

この出来事によって、この世の価値観が打ち砕かれ、失敗が成功に、敗北は勝利へと逆転させられたのです。

そして、この時、キリスト教が成立したのです。

死んだ人が甦るという現象はこの世の法則である自然法則からは、また、我々の常識からはあり得ないことであります。

因みに、復活されたイエス様の有様は聖書の記述を見るところではこの世の生物学的な存在ではありませんでした。

復活されたとはいえ、またもとの生身の人間としての生活を再開なさったわけではありません。

聖書の記述によれば40日間にわたり度々人前に姿を現わした後、「再び来るまで世の隅々にまで福音を述べ伝えよ」と弟子達に言い残し昇天されたとある。

復活という出来事はこの世の法則を越えた次元の現象であり、朽ちることのない霊なる存在は時間と空間というこの世の次元を超越したものであるということを心に留め、今日のお話しは一応終わりにしたいと存じます。

キリスト教信仰の核心はこの復活であり、イエス様は罪と死に打ち勝たれ、私たちの先駆けとして復活の初穂となられたとして教会はキリスト教の原点である復活日を最も大事な祭りとして祝うのです。