「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。

一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。

あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ6:24)

さて、人間にとって最も欲望をかき立てられる種は富ではないでしょうか。

お金があれば衣食住に係る大抵のものを手に入れることができますから、誰しもがお金は欲しいとの思いをもちます。

豊かな生活を望み職業を選択する際にはより給料が高い職種や職場にするのが人の常です。

お金はこの世の生活になくてはならないものであり、教会といえどもお金なしには成り立ちません。

実際、献金を集めて宣教活動、教役者や事務職員の給与、施設の維持管理、そして、貧しい私たちの教会では僅かしかできていませんが困窮者への救援、人道活動への支援などに使っています。

上記の聖書の教えは富(お金)が悪であるというのではなく、富(お金)は人が使うものであって、至上のものではないから、それに振り回され、隷属するようになってはならないということでしょう。

しかし、頭でそのように理解できても、富(お金)への執着は欲望のパン種となって人の心の中で膨らんでゆき、人の心を蝕んでゆきます。

この世を安楽に過ごすにはなんといってもお金が最も便利で有効な保証となりますから、人は自分(達)のためにできるだけ富を蓄えておきたいという気になります。

しかし、その気持ちには度が過ぎないようにたが(箍)を嵌めておかなくてはなりません。

人はお金が至上のものではないことをよく知っております。

強盗に入られ、「全財産を差し出せ、さもなければお前の命をもらう」と脅されたなら、多くの人は命が惜しいので全財産を差し出すでしょう。

ということは自分の命、この場合生物学的な命ですがこれはお金より大切、「命あっての物種」という認識を持っていることになります。

しかし、この場合、全財産を放棄することにより生物学的な命を留保しましたが、その人の霊としての命が確保されたわけではありません。

それはその後の、その人の生き様次第ということになりますが、まずは生物学的な命を留保し、自己実現の機会を担保したことで上記の選択は正解であるといえると思います。

では、この自己実現(霊的な命)が生物学的命や富とどちらが大切かということになりますと、答えは簡単ではなくなります。

我々並の人間にはとてもできないことですが、人間の社会には財産が自分のためのものではなく、多くの弱い人、小さな人のための使われるべきものであり、まして、強盗などにあげてしまって良いものではないとして、自分の命に換えてでもその財産を守り抜くという崇高な人がいることも忘れてはなりません。

キリスト教のメッセージは、

「富よりも自分の生物学的な命よりももっと大切なものがある。

それは神と人とを愛することである。」ということです。

「(いと小さき者の中にいる)私のために、自分の(生物学的)命を失うものは、それ(霊的な命)を救うであろう。たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失ったり、損じたりするならば、なんの益があるだろうか」
(ルカ、9章、23-25:ただし、括弧内は小僧の加筆)。

蛇足ながら、この「神に仕えるか、富に仕えるか」の問題について小僧の70点解説を致しますと、この問題は「あなたは宝をこの世に蓄えますか天に積みますか」という問いに帰着するのであって、自分の重心(価値観)がこの世に置かれているときは富に隷属している状態であり、自分の重心を天に移している人は神様に従って生きる姿勢が自己実現に努めている状態ということになります。

我々弱い人間には最も難しい命題の一つであるといえるでしょう。