第21話 クリスチャンは何故毎週日曜日に教会へ行くのでしょう。

2009年9月20日

クリスチャンでない日本人から見ると、クリスチャンはどうして毎週日曜日に教会で出かけるのか、不思議に思われるようです。

小生も友人達から日曜日の企画に参加しないかと誘われましたが、よく、NEVER ON SUNDAY(日曜日はダメよ)とつれない返事をしてきました。

「私なんぞお寺さんに行くのは親族の法事の時くらい、墓参りも親の命日にたまに行くだけだぞ。君は何で毎週毎週教会にいかなくちゃならないのだ。」とよくいわれたものです。

そんなとき、「罪が深いから、毎週懺悔に行かなければならないのさ。」と冗談半分に答えてきました。

クリスチャンが日曜日に教会へ行くのは前にも触れましたが、第1には主イエスの復活された日を記念し、信仰者が共に集って祈るためといえるでしょう。

神様はどこにでもおられるのだからわざわざ教会に出かけなくても各自の場所で祈れるじゃないかと思われるかもしれません。

確かにそのとおりではあるのですが、一人で祈るのではなく、信仰者が共に集って祈り、聖餐に与るということが大事なのです。

また、第2には一週間働いたら一休みして自分を取り戻す時とするためです。

6日働いたら1日休むという習慣は旧約聖書の創世記にある天地創造物語で、創造の作業の過程において「神は7日目に休まれた」との記述に基づいたユダヤ教の習慣でした。

ユダヤ教の安息日は土曜日ですが、キリスト教では主イエスが復活された日曜日を主日と決め、この日は神を思い自分を取り戻す日としています。

ユダヤ教の安息日(安息日を聖として忘れてはならない:十戒)もキリスト教の主日も人は働きずくめで自分を見失ってはいけないので、働きを休止して神を思う日を持つべきであるという趣旨で一致しているといえるでしょう。

では、クリスチャン達は日曜日に教会に集まって何をしているのかといえば、まずは第一に礼拝を行っているのです。

礼拝とは一言で説明すれば参集者が共同でおこなう祈りであるといえると思います。

私たちの聖公会やローマカトリックでは聖餐式(ミサ)が中心の礼拝であり、プロテスタント教会ではみ言葉を学ぶ説教が中心の礼拝となっていて、若干その形態が異なります。

聖餐式(ミサ)は前半が御言葉の礼拝、後半がパン裂き(聖なる食事)の礼拝という構成が採られています。

御言葉の礼拝ではその日のテキストとなっている旧約聖書と新約聖書(使徒書と福音書)が読まれ、大抵はそれを題材とした説教が語られます。

パン裂きの礼拝は、主イエスが捕らえられる直前の最後の晩餐の時に、「パンを裂いて分け与え、葡萄酒の杯を回してこれからは私の記念としてこれを行ないなさい」(ルカ:22章19節)と言われたことを伝承するもので、本来的に共にする食事です。

パンはキリストの体を、葡萄酒は罪を赦すために流されたキリストの血を象徴しているとここでは説明しておきます。

「象徴」などという説明は間違っていると神学者に叱られてしまうことでしょう。

聖別されたパンと葡萄酒には真実なる臨在(real presence)があると信仰者には認識されており、その本質はキリスト教の奥義に係わる部分であります。

門前の小僧が皆様に正しく説明できる内容ではありませんので、「象徴」という表現でお許し下さい。

聖餐式(ミサ)において参列者は御言葉の礼拝で福音を学び、共に祈り、生活(思いと言葉と行い)での過ちを懺悔をし、神の赦しと聖餐に与って、それぞれの持ち場(生活の場)に送り出されるというプロセスとなっています。

前回お話しいたしましたようにキリスト教では単に罪を赦されて終わるのではなく、主日礼拝でリフレッシュされて回復された人がそれぞれの持ち場に帰って自分の務めを果たすことで神の心に適う社会(神の国)が実現されると教えています。

小僧の70点解説をいたしますと、礼拝を通して生きるエネルギーを戴いたキリスト者は6日間自分の持ち場へ出向いて働き、7日目にまた教会へ戻ってきて充電をして頂くというサイクルが生活リズムとなっているのです。