聖書(ヨハネ7章53~8章11節)の記述をお聞き下さい。

人々はおのおの家へ帰って行った。 イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

当時ユダヤ教の指導的立場にあった律法学者たちやファリサイ派(パリサイ派)の人々は、ユダヤ教社会では何の権威ももたないナザレ人、すなわちガリラヤ地方のナザレ村出身の田舎者であるイエス様が人々に神の国の話をし、民衆が熱心にそれに聞き入って評判となっていることをねたみ混じりに怪しからんことと苦々しく思っていたのです。そこで、罠に掛けてとっちめてやろうと企んで、この場面を仕立てたのです。姦通の現場で捕らえられた女を引きずってきました。モーセの律法によればそのようなふしだらな女は石打の刑罰に処すべしと定められています。イエス様が石打の刑は残酷だから控えなさいといえば、モーセの律法を守らない偽教師といって非難し、訴えを起すことができます。もし、律法にあるとおり石打を実行しなさいと言って促せば、女は血だらけとなって悲惨な姿を人々の前にさらすことになります。そうすれば、この人は冷酷な人間とみられ、民衆の評判を落とすことができると目論んだのです。どっちを選択してもイエス様をとっちめることができるはずの罠でした。しかし、「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」と記されています。要するに、まともに応えようとはしなかったのです。せっかくしかけた罠、うやむやにされては元も子もありませんから、律法学者、ファリサイ派の人々はしつこく食い下がります。そこで、イエス様は言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と。これは人の良心に問いかける言葉です。姦通をした女は怪しからんという思いは人々の心にあったとしても、神の前に立って私はこの女を責めことが出来る清廉潔白な人間ですと胸を張っていいきれる者などいないはずです。さすがに誰も石を投げられませんでした。人々は恥ずかしくなって一人また一人と現場を去っていき、罠をしかけた律法学者、ファリサイ派の人々も具合が悪くなり退散したのです。イエス様と、真ん中にいた女だけが残されました。この姦通の罪を犯した女は人々の前に引きずり出され、どんなにか辱しかったことでありましょう。時間がたつに連れもうどうにでもしてくれと開き直っていたかもしれません。しかし、成り行きは意外な方向に進展します。石を投げつけるはずの人が何もせずに去っていったのでした。そのときのイエス様の言葉は、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」「わたしもあなたを罪に定めない。」という赦しの宣言でした。更に、「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と締めくくります。

イエス・キリストによる罪の赦し、それは犯してしまった罪を赦す(わたしもあなたを罪に定めない)というだけではなく、一歩進んで赦された者に赦された今の気持ちを忘れずに新しく健全に歩むこと(行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。)が促されております。この女の後日談は聖書に記されておりませんが、この人が赦され、励まし送り出されたこの出来事はこの人のその後の生き方を大きく変えたであろうことは想像に難くありません。私たちも犯した罪を神様に赦して頂きながら日々を歩んでおりますが、ただ赦して頂くだけでなく、赦して頂いたことへの感謝の気持ちをエネルギーとして、自らが置かれた場において赦された者に相応しい新しい歩みを進めることが求められているのだと思います。