第28話 宗教はどれも同じなのでしょうか?

2009年12月13日

 宗教は山登りと同様、目指す目的地(頂上)は皆同じで、そこへたどり着く道が違うだけだと言われる方がよく居られますが、その意見に小生は俄には賛成致しかねます。確かに、真面目な宗教の信仰者は神(仏)様の前に跪き、己を無にして祈ることによって神(仏)様に聴き真理を学ぶという共通した姿勢がよくとられますから、同じような宗教体験を通して同じ方向に導かれることも多いのですが、それぞれの宗教には教義というものがあって、究極の目標としていること、考え方はそれぞれ異なっており、これをプロセスが違うだけということは正しくないように思えます。それぞれの宗教を信仰する者は、当然ながら自分の信じるものが確かな真理であるという確信を持っています。ですから、その点を認めなければ各宗教が成り立たないことになってしまいます。

 しかし、真面目な宗教は人間の魂(心)を救済することを自らの課題とし、人が幸せになることを願うものであるという点で一致したものでありますから、人間社会で起こる出来事への対応ではそれぞれの信仰者がお互いに協力し合える近い関係にあります。一昔前までは、各宗教は他宗教を共存できない敵対関係と思い込み、邪教などと罵り合うことすらありましたが、今日の日本では、各種社会問題(イシュー)に対し、宗教者として宗教・宗派の壁を越え一致して協力する運動が広くなされるようになってきたことは喜ばしいことです。

 宗教者は神(仏)様の前に跪き、己を無にして祈りつつ神(仏)様に聴き従って歩むものであるはずですから、信じるものが違うなどといって争い殺し合う宗教戦争など本来起すはずはないと考えます。今日の世界では、異なる宗教を信じる集団同士が争いを続けており、マスコミはこれをよく宗教戦争と称しますが、争いの原因が宗教間の教理の差にあることはまずありません。実際のところ、パレスチナ地方で繰り広げられているイスラエル人とパレスチナ人の争いは決してユダヤ教とイスラム教の争いではありません。これは、第二次世界大戦後世界中に散らされていたユダヤ人を集め、2000年前の故郷であるパレスチナに、現住民との間の共存を可能にする準備を整えることもなく、新たなイスラエル国家を樹立し入植させたという英米諸国の無茶苦茶な政策が原因であります。パレスチナ人の宗教は少数のキリスト教を含みますが大多数がイスラム教であり、イスラエル人の宗教がユダヤ教であるというだけのことで、これは、宗教戦争などではなく、双方の利害が反する住民間、民族間の対立構造に他なりません。

 また、アイルランド紛争についてもマスコミはカトリックとプロテスタントの宗教戦争と解説しますが、北アイルランドはかつて英国によって武力によりアイルランドから分離されて英国領とされた歴史があり、北アイルランドでは元々の住民であった人々の宗教はローマカトリックであり、占領後に入植してきた英国人の宗教は英国国教会であるという関係があります。これもカトリック教会と英国国教会間での神学論争が原因となった宗教戦争ではなく、旧アイルランド系住民とイングランド系住民との利害・感情が絡んだ対立に他なりません。

 ただ、これらの紛争の原因は宗教上の対立ではないにせよ、それぞれの住民(民族)には主たる宗教があって、宗教の務めは人間の魂(心)を救済することにあり、人々が幸せになるように導くものであることを鑑みれば、それぞれの宗教の指導者には双方が共に共存していく道筋を模索し、是非、よいリーダーシップをとって欲しいものと願うものであります。

 神学者や聖職者あるいは他宗教の方々から危ない解説だとおしかりを受けるかもしれませんが、門前の小僧としましては、信仰者が己を無にして天なる絶対者(神)に心の窓を通して問いかける(祈る)ときに、人間側が「父なる神様」、「アラーの神様」と呼ぼうが、「阿弥陀様」「お釈迦様」「大日如来様」と呼ぼうが、「学問の神様」「平和の神様」「山の神様」と呼びかけようが、お応え下さる天なる絶対者は祈る人の心にちゃんとメッセージを届けてくださるはずと理解しています。自らの心に根ざした真面目な信仰をお持ちの方は神に聴くすべをお持ちの方でありますから、小生は宗教が違ってもこれらの方々に基本的な信頼がもてるのです。