キリスト教が教える神様は三位一体の神様とされていますが、この神学(神様理解)はアタナシウス[298頃~373]によって提唱されたものといわれています。この方はアレクサンドリアの司教で、325年のニカイア公会議で、この説を展開し、正統なキリスト教神学と認められたということです。
私たちの日本聖公会ではこれをアタナシオ信経として今日に伝えており、一部を紹介しますと以下のようになっています。
3:わたしたちは三位一体の唯一の神、唯一である三位一体の神を
4:位格を混同することなく、本質を分けることなく礼拝する。
5:なぜなら、父は一つの位格、子も一つの位格、聖霊も一つの位格であるからである。
6:しかし、父、子、聖霊の神性はまったく一つであり、その栄光は等しく、尊厳は共に永遠である。
神様には父と子と聖霊の三位があるけれど、三位の神様は一体の神様で不可分であるから、これを分けずに一体の神様として拝みなさいと説明するこのアタナシオ信経から、三位一体の神様を理解しようとしても、私たち現在の人にはなかなか理解し難しいように思えます。そもそも、このアタナシウスの三位一体論は主イエスの存在を神から遣わされた預言者、すなわち「人間」と位置付ける考えや、当初は人として誕生したが、生きる過程で神様に聖化され、神の子としての神格を得たといった考えに対して、当初から神によって遣わされた神聖なる神の子メシアであるという考えを示したものであったと解されます。その考え自体に異論をはさむものではありませんが、私自身、このアタナシオ信経はどうもピンとこないというか、むしろ、読めば読むほど混乱してしまう感じさえします。日頃の信仰生活の中で実感する神様のイメージとはどうしてもしっくりこないのです。
そこで、三位一体の神様のイメージについて例によって小僧の70点解説を試みてみますと、
「父なる神」は大地
「子なる神」は大地にしっかりと根を張った木で
その木の枝には葉のように人間(信仰者)がつながっている
「聖霊なる神」は木を介して大地から養分を枝や葉に運ぶキャリア
という象徴的な表現がしっくりくるように思えます。養分とは神の口から出るみ言葉や導きのことを意味しています。神様は、神様から離れ、浮き草のように漂って、自己完結的に勝手な生き方をしている人間に対して、懸け橋として主イエスを送り、神様との関係を回復させてくださいました。そして、懸け橋である主イエスは樹木(わたしはブドウの木:ヨハネによる福音書15章5節)となって浮草をその木に結び付け、その葉となった人に、神様は木の幹と枝を通して聖霊を送り、導き、養ってくださっています。主イエス以前の旧約時代には神様に選ばれ遣わされた特別の存在「預言者」だけが正確に神様の声(聖霊の働き)を聴き取ることができたのですが、復活された主イエスに結ばれた信仰者は誰でも聖霊の導きを受けられるようになったということを勘案しますと、所謂神様は父なる神様を意味し、子なる神、聖霊なる神は、人を父なる神様に結びつける「神様の働き」と理解するのがしっくりくるように思えます。アタナシウス大先輩からは、お前の考えは異端だとの厳しいお叱りを受けることを覚悟しつつ。