今回は、この世の管理をゆだねられた人間はどのように物事を把握し、把握した事柄をどのように判断し、それに基づいてどのように行動するのでしょうか、一連のメカニズムについて考えてみたいと存じます。まず、はじめに神様との接点として人間に備えられている感性について考察します。

 

人の感性には状況を把握する感覚と、状況を把握した後の心の状態を示す感情とがあるように思えます。感覚にはまず、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感が備えられ、この世の物理現象を知覚する能力が与えられています。神様は物理的な存在ではありませんから五感を通して霊的存在である神様を直接知覚することはできませんが、五感は人間の基本感覚として重要なものです。視覚を例にとって考察すれば、人は目を通して、対象物の位置、色彩、形状を認識できます。これはカメラ機能に対応しているといえますが、人の感性は情報把握だけでは終わりません。把握した情報を心に受け止めて感情を変化させます。見たものが花や風景であった場合、美しいと思う感情が生じ、心が和んだり、癒されたりします。カメラの場合、美しい花や風景を画像情報として捉えますが、それを美しいと感じる感情は持ちません。要するに、人の感性は単なるセンサ機能だけではなく、それによって把握した情報に基づき心の状態(心情)を変化させる「感情」という産物を伴うものであることを心に留めておきたいと存じます。

 

これらの五感の他に、心の感覚である第六感というものがあることは多くの人が認めるところですが、この感覚は物理現象を体で知覚するものではなく、他者の心の状態などの非物理的現象を心に直接感じ取るものであるため、この感覚の感度は個人差が大きいように思われます。この感覚が研ぎ澄まされた人には良く感じ取れる事柄も、鈍い人には全く感じ取れないといったことがよく起こります。第3話で、神に聴く姿勢(祈り)こそが人間の命綱であると申しましたが、神様との接点となる「祈り」などの宗教における主要な活動はこの心の感覚である第六感の領域でなされるものであると言えると思います。そして、人はこれらの6つの感覚を駆使して状況を把握し、それらを総合して心情を形成して生活していると言えるでしょう。

 

また、人の感性には善と悪を識別し、善を尊ぶ良心なるものが備えられ、6つの感覚を駆使して把握した状況をこの良心というフィルターを通して心情の形成をしているように思えます。モーセの十戒を持ち出すまでもなく、人を殺したり傷つけたりすること、盗むこと、嘘をつくことは基本的に悪いことだと判断する感性、すなわち、何が善であり、何が悪であるのかの判断基準となる人の良心はどの民族・地域でもほぼ同じ傾向を示すものとして人に備えられているように思えます。昔子供であった頃、ご指導頂いていた司祭様から、「良心の声は神様の声だと思いなさい。」と教えられたことを思い出します。

 

人は周りで起きる現象を自らの感性を持って受け止め、その状況を把握致します。例えば、家が燃えている情景を視覚が捉えますと、「あ!火事だ」と人は認識します。火事という事態が把握できたなら、一般的には消火しなければとの思いを起こします。これは、生まれつき備えられていた判断基準ではなく、その人のそれまでの経験の中で培われてきた判断基準といえます。このことは赤ちゃんの目が炎を見、肌が熱を感じ取り、耳が轟々という燃え盛る炎の音を聞き、鼻が煙の臭いを嗅ぎとっても火事という事態が起きていることすら理解できないことから分かります。異常を感じ恐ろしいという恐怖感を持ったとしても消火しなければならないという発想は起こりません。このように、人は経験を積む中で知識の蓄積をし、判断基準を培っていくもののようです。感性を使って得た火事の情報が初期の状態であったなら、その人の判断基準に照らし、バケツに水を汲んであるいは消火器を使ってなどして自らが消火する行動を起こすでしょう。自らの手におえない状態であることを認知したならば、その場から逃げ、消防に通報するという行動をとるでしょう。このように、人は状況を把握するとその人の判断基準に照らし、その状況に応じて自らの行動を選択するものです。しかし、現場にいる人がもしも放火犯であったとしたら、家が燃えている情景を視覚が捉えても、普通では消火しなければという判断はしないでしょう。多分、火が消えない状態となったことを確認した後、逃亡するでしょう。まれに、放火したことを悔い、良心に従って、消火行動を起こすということも無いとは言えません。この様に、人は感性をもって状況を把握した場合、その人の判断基準に照らし、多様な行動を起こすものであることが分かります。

 

以上のことから、人間にとって、その人が経験の内に培ってきた判断基準というものは、その人の生き方に大きな影響を及ぼすものであり、その人の存在そのものを意味づけるといっても過言ではないほど重要なものであるといえるように思えます。治安の乱れた環境、戦禍や略奪が横行する劣悪な環境下で成長期を過ごした人が、愛を知らず、テロリストになっていくという現象を生んでいる現実があることも否定できません。そのことから人間にとって、特に成長期には健全な社会環境の中で、愛に満ちた中で育まれることが重要であることが理解できます。ですから私たちは、次代を担う子供たちが健全な社会環境の中で、とりわけ愛に包まれて育つように環境整備に力を注ぎたいと思うものです。