今回は、一般社会の価値観とキリスト教の価値観の違いについて考えてみたいと存じます。

キリスト教会が最も大事にしているものそれは人の命です。イエス・キリストは次のように言われました。「わたしをつかわされたかた(父なる神)のみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。」[ヨハネ福音書6章39節] 人の命とはこの世を活きる生物としての命だけでなく、肉体の死を超えてなお生きる霊なる命、永遠の命をも意味しています。否、人間の生物としての存在は例外なく肉体の死をもって消滅するものでありますから、むしろ、キリスト教はキリストの枝となって働き続ける命、後者の方を重視していると言ってもよいかもしれません。

一般社会もヒューマニズムなどの観点から人の命は大切であると認めていますが、国といった立場をとる場合など、前回お話ししましたように戦時下などにおいては個人の命よりも優先する事柄がでてくるようです。一般社会、例えば国が大事にしていることは何かといえば、それは国益であるといえるでしょう。国益、すなわち、国の利益とは、具体的に何を意味するかを考えてみれば、それは一般的には国が平和のうちに、豊かになることであるといえると思います。そして、ここでいう平和とは、他国から脅威を受けることがない安全保障の確保を意味し、豊かさとは主として経済的繁栄を意味しているといえるように思えます。しかし、このような内容の国益は人間を幸福にするとか、人生を意味あるものとするということに必ずしも直結するものではないように思えます。前回お話ししましたように、国益を追求するあまり戦争となった場合等、国民の命を犠牲としてきた歴史があります。

また、世の中が極めて大事としている価値観としては世の中の役に立つことが重要であり、そのため役に立つ人間を大事にするという基準があります。それは各分野で、有能な人材が求められ、期待に叶う働きをする人を価値ある者として評価します。このことは、産業の分野において然り、学問の分野でも、芸術の分野でも、スポーツの分野でも、あらゆる分野で然りです。特に近代の日本社会では経済的価値が重要視され、経済的観点に立って、より富を生む能力を備えた者は、他の者より価値が高いとされ、社会的に優遇されるという傾向が見られます。そこでは能力の優秀性や効率性が求められるため、障がい者などハンディーを背負っている人たちには、生きにくい社会となっている一面があります。

繰り返しになりますが、父なる神様に遣わされた主イエスの願いは、すべての人間を朽ちない霊なる存在に育てること(父が私に与えてくださった人を一人も失うことなく終わりの日に甦らせること)であります。ですから、その思いを継承しているキリスト教会は、効率や経済性を重視する一般社会とは異なる価値基準をもつものといえます。

教会は「霊なる命」を自分の魂に宿していなければ、肉と魂とから成る人は肉体の死をもって無に帰してしまうことになると教えます。そうならないように「霊なる命」を自分の魂に宿すためにはどうすればよいのか。その鍵はヨハネによる福音書:14-6の「わたしは道であり、真理であり、命である。」とのみ言葉にあるように思えます。主イエスは神の御心を人々に知らせ、「霊なる命」に至らせる道を造り整えることがキリストとしてのご自身の役割であると宣言されています。「わたしは道であり、真理であり、命である。」とは、すなわち、神に聴く術はキリスト・イエスが示された真理(私は真理である。)に学び、その道は受肉されたキリスト・イエスの十字架の死によって造り整えられ、その復活によって「霊なる命」が初穂として示されたと理解されます。

それに続く「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」の言葉は、要するに、人はキリストを介さなければ「霊なる命」を得ることができないと言っているのですが、この言葉の意味を人はクリスチャンになれば救われ、ならなければ救われないと短絡的に理解してはいけないと思います。たとえクリスチャンであっても、それだけで救われるわけでないことは、主イエスは「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入る(永遠の命を得る)わけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。(マタイ福音書7-21)」と言っておられことから分かります。この「神の御心を行う者だけが入る」ということは、神の御心を行う者だけが「霊なる命」をもつことを意味しており、それは単にクリスチャンであるとか、学問を積んだり努力をして道理を悟るとか、善き行いを積むこと等が「霊なる命」を得る資格とはならないということを宣言しています。

この言葉から、なんだキリスト教もやっぱり人の行いの善し悪しを問題にしているのだと誤解しないでください。大切なのは自我を捨てて(悔い改めて)、神様に聴き従って生きる心、すなわち、信仰をもって生きることです。ですから、自らを律して律法を頑ななまでに守り人から高い評価を得ていた律法学者やファリサイ人を主イエスは厳しく糾弾しました。それは律法を守って生きることを非難しているのではなく、律法を守る自分は他者より良い行いをしているから神様から高い評価を得る資格があると自負している点が問題視されているのです。むしろ、他者から罪人と蔑まれていた徴税人や娼婦たちの方が神様に近いと主イエスは言われました。それは、彼らは自分が罪人であることを熟知しており、神様の前に素直に跪くことが出来たからであります。彼らは主イエスに出会い、罪の赦しの宣言を頂き、赦された者にふさわしい(神と人とを愛する)生き方をしようと決心して新たに歩み始めました。決心が本物であるならば、その後の生き方の中で当然に行為となって現れます。み心に叶うようにと自分に可能な限りの努力をいたします。それが「神の御心を行う者」と見做され、天国の鍵(霊なる命)が与えられると理解されます。

神の国の価値基準では、主イエスが教えられたとおり、自分が神の前に罪人であるという自覚と、主イエスの恵みによる赦しを願う気持ちを持って神のみ前に跪き、赦された者に相応しい新たな歩み、すなわち、神様の助けを求めつつ神と人とを愛する生き方をしようという決心をもって、社会(コミュニティ)にあって、自分にできることを担い生きることと言えるでしょう。そのように生きる人は社会への貢献度の大小に関係なく、一人一人が大事にされることになります。できないこと(律法の完璧な遂行)は問題とされることはなく、それは主イエスの十字架が贖ってくださるという福音が宣言されているのです。

この世の価値観と神の国の価値観、その差を端的に表現すれば、この世の価値基準からすれば、社会の発展に貢献できる人間が大事にされますが、神の国の価値基準では貢献度に関係なく、それぞれの賜物に応じた貢献をしながら神様のもとで生きる一人一人に霊なる命が与えられ、大事にされると言えるでしょう。要するに、神様の導きの下で社会(コミュニティ)に貢献する生き様に価値があり、結果としての貢献度の大小は重要ではないといえるでしょう。