次に「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」との戒めですが、「神を愛せよ」との戒めよりこちらの方がどなたにも理解しやすいかと思います。

聖書は神の愛を次のようなたとえ話で教えています。

迷える子羊の話、放蕩息子の話などです。

群れから外れてしまい迷子になった1匹の子羊をもおろそかにしないで探し求め、手をさしのべる神の愛。

また、放蕩の限りを尽くしたのち悔い改め、下男として使ってもらおうと帰ってきた息子を我が子として歓迎する神の愛が語られています。

これは神様が人を愛する形として示されますが、この「神様が人を愛する心」が「人が隣人を愛する心」の模範となるのでしょう。

上記の戒めを、小僧の70点メッセージで分かり易く解説すれば

「人は本能的に自分を大事にする心を植え付けられているものであり、他人のことは他人のこととして無関心とならず、他人に起こったことを我がこととして受け止めなさい。そうすれば他者との関わり方にも血が通います。」ということでしょう。

イエスはお答えになった。

「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。
追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。

『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」

そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

(ルカの福音書10:25~37)

こここに出てくるサマリア人とは、サマリア地方に住むユダヤ人の親戚に当たる人たちで、もとはといえば同じイスラエルの民であったのですが、外国支配を受けたときに他民族の血が混ざったことでユダヤ人は大変に軽蔑し嫌っていた人たちです。

祭司とはエルサレムの神殿に仕え、礼拝を司るユダヤ人の超エリートで、レビ人とはやはり神殿で祭司の補佐役をするエリートです。

上記の善きサマリア人の話はユダヤ教のエリート達が困っている人を見て見ぬふりで放置し、ユダヤ人から蔑まれていたサマリア人が災難にあった人を助けて愛を示したというお話です。

このイエス様のたとえ話を分かりやすくいえば

「困っている人に出会ったなら、この人は私の隣人ではない知らない人だからといって避けることなく、あなたがその人の隣人となって助けてあげなさい。

それが隣人を愛するということです。」ということでしょう。

「隣人を愛せよ」の前には「神を愛せよ」との前提があり、この二つの戒めは対で理解しなければなりません。

それ故、この隣人愛は前述したように所謂ヒューマニズムとは異なるものといわなければなりません。

神が人に示す愛はキリストの贖いに象徴され、その究極の愛はヨハネによる福音書第15章13節に記されている「友のために命を捨てる、これに勝る愛はない。」であります。

そしてキリストであるイエスは人間の罪を身代わりとなって引き受け、罪を贖う生け贄として十字架に架かって死なれました。

ところで、友のために命を捨てるなんてとても出来ることじゃない。

そんなことを要求するキリスト教はやっぱりごめんだなんてつぶやいて居られるあなた。

そんなに尻込みしないで下さい。

究極の愛を持って神様に従う立派な人は聖人といわれるような人であって、我々並の人間にはできることではありません。

先にも申しましたように、神が人に求めておられるのは立派な行いではなく、神様を拒否したこと、間違ってしまったこと、できないことを認めて謝る(悔い改める)こと、神様に信頼をおいて歩むことです。

我々の間違い、足りなさは、基本的にイエス様が十字架の死によって贖って下さったわけですから、既に解決済みです。

ただ、我々俗人が罪を犯すのは仕方がないことで、その代償としてイエス様は十字架にかかってくれたんだろうなどと居直るのではなく、罪を認めて謝罪する心と、にもかかわらずそのような自分が受け入れられていることへの感謝、許された者として新たに歩もうとする心だけは持ちたいものです。

すなわち、子供の不始末を親が代って償うのは当たり前だと嘯くような どら息子ではなく、親の願いと苦しみを理解する者でありたい。

不始末を処理してもらうことに申し訳なさと感謝を感じて、今後は親の気持ちに背かないように歩むことで親子として心が通う関係を保ちたいということです。