渋谷聖公会聖ミカエル教会 パトリック 山田益男
教会の役割の再認識
主イエスは人となられ、人間社会に「道・真理・命」のメッセージを残された。そして旧約の律法と預言を「神様と隣人への愛」(マタイ22章37-39節)に集約された上で「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章34節)との掟が示された。このことによって、主イエスの導きに従って生きようとするクリスチャンには、接する人と互いに愛し合いながら生きることが勧められ、さらに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイ28章19節)と社会に出て行って宣教することが促されている。呼び集められた者達が主イエスにつながれて共同体を構成し、その中で個々が養われること(牧会の働き)は教会にとって勿論重要であるが、それだけでなく、主を知らない外の羊たちに福音を伝えること(福音宣教)も教会にとって重要な働きで、車の両輪であることを認識したい。
今日の教会の姿
教会の現状に目をやれば、教会から若い人の姿が減少し、聖職を志す人も減少して信徒の減少・高齢化が進でいる。今まで教会活動の中心にいた牧師が不在となって、混乱をきたし機能不全に陥っている教会も少なくない。教会は主イエスに呼び集められた者の群れ(エクレシア)であるから、主に従う若い信徒が育ち継承されなければ教会はいずれ消滅する運命にある。何故このような状態となったか? それは私たちの教会は牧師を中心として礼拝と信徒の交わりに与り、苦しい時には牧師に相談し、励ましを受けながら、居心地の良い教会生活に安住してきた結果ではないか。「互いに愛し合いなさい。」の戒めも教会外に向けられることは少なく、社会に向けての宣教意欲も萎えていた教会の実態があることを否定できない。教会が信徒(聖職を含む)たちだけのものとなり、社会にあって教会のなすべき役割が果たせていないことに基本的原因があるというべきではないか。もともと我々の日本聖公会は外への伝道という活動を熱心に行ってきたとは言い難いが、それでも以前は信徒子弟が教会につながっていたことで、彼らは信仰に導かれ、世代交代がそれなりになされてきた。しかし、昭和後期頃から、経済優先の競争社会となり、世の中のテンポは速くなり、子供たちも受験対応や資質向上のために塾や各種教室通いが一般的となり、子供たちでさえ、時間的余裕がなくなった。このような事情は信徒子弟も例外ではなく、教会離れの現象が顕著であった。その結果、教会では若い信徒が育ち難くなり、聖職を志す青年も出にくい状態となった。
日本のようにもともとクリスチャンが少数の非キリスト教国ばかりではなく、キリスト教の文化・伝統の下で発展してきた欧米諸国でも近年若者の教会離れの現象は顕著である。ということは、教会が今まで行ってきた教会側からの一方的な福音メッセージの発信(従来の宣教手法)は今の若い人たちの価値観や関心事にマッチしておらず、彼らには教会のメッセージが伝わらないということを意味していると解される。だとすれば、単に我々の教会が外の羊に目を向けるようになれば、この問題が解決できるという単純なことではなく、外への発信手法を今の時代に生きる若者に届くように、彼らの価値観や関心事に沿って工夫・開発しなければならないことを強く認識する必要があるといえよう。
新たな宣教手法の開発
今の教会は、自然科学の確実性に重きを置いて生きている現代の人々には理解できない昔の表現で一方的にそのメッセージの発信をし続け、結局のところそれが多くの人たちには荒唐無稽の内容としか受け止められていないように思われる。何人も知性・感性が備えられた個別の人間として生かされていることを踏まえ、信仰をもつ者も持たない者もこれは確かな事実であると共通理解ができるところを出発点にして発信しなければ、神の福音を現代の日本人に伝えることは不可能ではないかと思われる。
主イエスが人となられ、人間社会に届けられた「道・真理・命」のメッセージが、この時代に来て陳腐となったとか、間違えているということではないであろう。要するに、教会の福音メッセージの伝え方・発信手法が陳腐というか、現代の若者にそぐわないということだと思われる。福音メッセージが陳腐ではないことは、現在の日本社会の中で社会的弱者を支援するボランティア活動が盛んに行われるようになってきたことから察知できる。誰もが人間らしく豊かに暮らせる社会になるよう、身近なところでできることを自らすすんで行うボランティア活動。彼らは金銭的な報酬を期待することなく、お金では得られない他者との出会いや発見、感動が得られることを励みとしている。このような思いを持つ人の価値観は決して我々の価値観と異質とは言えまい。共通理解が持てる場をベースとして福音の発信をすることが今の教会にとって重要であろう。
教区の再編成の意義
2020年に開催された日本聖公会第65定期総会において、法規改正が行なわれ「宣教協働区の設置」と「伝道教区制の導入」が、翌年第66臨時総会では北関東教区が「伝道教区」となることが決議された。宣教協働区の設置の決議には従来11教区で構成されていた日本聖公会を将来は3ないし4の教区構成に再編成することを目指す意図が含まれている。日本における適切な宣教戦略を踏まえて新たな適正規模の教区再編をしようというという動きはかなり昔からなされていた。1971年に開催された日本聖公会第31定期総会で「日本聖公会教区制問題研究委員会」が設置され、先輩たちが綿密なる検討を重ね1974年の第33定期総会に委員会報告がなされている。その際、「単なる教区線引き図案の提出では教区制問題の解決にはならず、宣教理念、教会の体質改善に踏み込まなければ不可能である。」という本質的な問題指摘をしている。教区再編の目的は信徒の減少・高齢化が進みじり貧となってきた教会組織を立て直すことにあるのではなく、教会が日本社会の中にあって宣教責任を担えるように体制を整えることにある。企業の合理化とは意義が異なることをしっかり認識し、今までのように教会が内部の問題にだけ目を向け、日本社会に生きる外なる羊への関心と係りを疎かにしていては教会が教会としての存在意義を失うということを肝に銘じたい。「宣教理念」とは、教会の働きは信徒の養い(牧会)に係わるだけでなく教区領域内に生活するノンクリスチャンに向けて福音をどのように発信するか(宣教)ということを我々がはっきりと問題認識することであり、「教会の体質改善」とは教会が内部のことだけに目を向けるのではなく、社会に目を向けること。また、宣教の働きを今までにように聖職にばかり任せるのではなく、信徒を含めた教会全体で担うようにチームミニストリー体制を整えることといえるのではないか。
主イエスが示された宣教方法
主イエスはガリラヤの村々をめぐり、病者、障がい者、寡婦といった社会的弱者や罪人とされていた徴税人、娼婦達に寄り添いながら福音を述べ伝えられた。この姿に教会の宣教活動の原型があるというべきであろう。最近、我々の教会でも貧困問題や正義と平和問題に目を向け、子ども食堂や、フードパントリーの働きに係る教会が増えていることは、教会の目が外に向きだしたことの表れであり、教会のあるべき姿が芽吹いてきたといえるかもしれない。
教会とは主に呼び集められた者の群れ(エクレシア)であるとともに、主イエスにつながれた共同体(コルプス・クリスチ)を構成するものである。キリストの体はアクティブに活動する生命体であり、そこに繋がれた者はその体の一部に組み込まれ、部分としての役割を果たすことによって命が注がれるのである。私たちクリスチャンは洗礼を受けて教会の信徒なったこと、聖餐に与ることによって、神の国への切符(永遠の命)が与えられるものではなく、キリストの肢につながれ自分にできることでキリストの働きのお手伝いをすることによって、生かされ死なないものとされることを忘れないようにしたい。主イエスは「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(ヨハネ6:39)と言われ、今もそのために聖霊を通して働いておられ、私たちにその手伝いをすることを望んでおられる。
教会がこの世の中で生き難くされて居る人に寄り添う働きに関わる時、そこが外の羊との出会いの場となる。提供する側と提供される側という立場にとどまらず、我々と異なる状況の中で懸命に生きている方々から学ぶという視点をもって係ることこそが重要であろう。人は非日常に身を置いた時、日常の中で当然と思ってきたことが、実は当然ではないことに、即ち社会の歪みの存在に気づかされるもの(フィールドワークの学習効果)である。
現代社会に生きる若者に如何に福音メッセージを届けるか
今までの教会活動の中で、我々信徒は養われてきたものの、次の世代の信徒がなかなか育たず、高齢化の現象が顕著である。聖職を志す人も少なく、各教会に牧師を派遣することも難しい状況である。無牧となって教会が機能不全となっていることも垣間見られる。信徒は聖職者にだけ頼らず、クリスチャンが大事にしてきたものを今の日本社会に生きる若者たちにどうしたら伝えることができるのか、教会の総力を結集して真剣に考えなければならない。
主日礼拝に新来者が見えたとき、我々はよくいらっしゃいましたと歓迎するが、再度見える方は極めて少数といえる。わざわざ教会へ見えたということは教会に何かを求めて見えたと考えるべきであろう。主日礼拝は聖餐式がなされる場合が多く、一般に一時間半ほどの礼拝になるが、初めての方には長すぎて負担が多いといえよう。また、内容からすると、ニケヤ信経や説教で使われる教会用語がよく理解できず、自分の抱える問題とは結び付かず、縁遠いように感じてしまう方が多いのではないか。荘厳な雰囲気などは感じ取ることができたとしても、未消化感が残るのではないかと懸念される。まず、教会が早急に取り組まなければならない教会の宣教姿勢は、何か悩みや問題をかかえて教会へ救いを求めてきた求道者の方々への対応を彼らの身になって工夫することではないかと思う。
現代の若者に福音メッセージを届ける最適手法は、教理を教え諭すことではなく、フィールドワークではないかと私は思っている。社会的弱者を支援するボランティア活動を教会が行うとき、その活動に賛同して市民ボランティアの方が参加されるケースをよく見かけるが、その現場は良き宣教の機会となるのではないか。市民ボランティアの方々はその分野の専門的なスキルを持っておられることが多く、教会の者は彼らからそれを学ぶことができる。ノンクリスチャンである市民ボランティアの方々は、ボランティアの原則と心構えを持って自らを律し、自らの責任を以ってこの奉仕を実行しておられる。人間として実に立派な行為であり、姿であるというべきであろう。ただ、このような生き方は誰にでもできることではない。幸いなことにクリスチャンボランティアには弱い私達にも挫折を恐れず参加しやすい道筋として、「主のなさる働きを自分たちにできることで手伝う(主の御用)」という奉仕の仕方が整えられているように思われる。自分達が最終責任を負う活動ではなく、神様がなさる仕事のお手伝いという楽な立場で活動に参加できる。この立場であれば、行き詰まり疲れ切った時には休ませていただけるし、なした仕事を自分の手柄と思いあがる誘惑からも解放していただけるので、弱い人間にも参加可能となるであろう。立派な行動をしようと無理を抱えることも無く、自らの弱さを認めていただいたうえで参加できるのである。ノンクリスチャンの方々に奉仕の現場で自分たちの考えや姿勢を口に出して説明する必要はなく、その気持ちさえしっかりと心にとめておけば、背中が語ってくれて一緒に奉仕をする彼らにも何かが伝わるものと思われる。
このように、フィールドワークの現場は奉仕する者と奉仕される者、奉仕する者にも主の御用として参加するクリスチャンボランティアと自ら責任で自らの意思で参加する市民ボランティアが混在することとなるが、そこが立場を異にするそれぞれが互いに学びあう宣教の場となるものと思われる。
新たな教区と教会
複数の教区が一緒になって新たな教区を作るならば、聖職数も増え、各教会に牧師を派遣できるようになるかといえば、それは違います。実際、東京教区が北関東教区と新たな教区を新設した場合、教会数は32+22=54となり、聖職数は28+14=42となり、聖職数は教会数に10以上不足である。しかも、宣教責任領域は東京都から埼玉県、群馬県、栃木県、茨城県が加わることとなり2,191㎡から24,856㎡と11.3倍となる。
各教会に聖職者が配置されることはまず望めないが、教区を構成する聖職と信徒の数が増えることは確実である。そしてその一人一人は神様から、異なるタレントを頂いており、皆が力を合わせれば多様な働きの可能性が高くなるという利点があることに着目したい。この点にこそ教区組織を大きくすることの意義があるといえ、ここに将来の希望を見据えて現実的に教会の体制を整える必要があろう。これからは一教会に一牧師ではなく、複数教会(3乃至4)に1乃至2の聖職という体制での教会活動を想定するのが現実的であろう。従来の一教会単位の活動ではなく、複数教会からなる教会群単位の活動を基本に教会活動を考えるのが妥当である。教会群に派遣された専業聖職である司祭が所属する全教会の牧会を担う牧師となり、その牧師を中心に教会活動が営まれることになろう。各教会はその教会群の中でそれぞれの役割を分担する。教会の両輪である信徒の養い(牧会)についてはいずれの教会も共通の機能を備える必要があろうが、外への宣教については各教会が責任を持つ地域社会の状況等に応じて多様な異なる役割を担うことで新たな宣教の可能性を見ることができるのではないか。
教会群構想
ここで考える教会群は東京教区の既存の教会グループとは全く異質のものである。今までの教会グループは一教会単位で独自の教会の働きを行うことを前提に、各教会間の情報交換や親睦を図るものであったが、今後は教会群単位で教会活動を考える形態となるからである。何故ならば、牧師は各教会に派遣されるのではなく、教会群に派遣される形になるから群内教会間の連携が必須となるからである。専業聖職は1教会に定住するとしても当該教会専属の牧師ではなく、教会群の司牧者としての立場をとるので、各教会の信徒一人一人に目をゆきわたらせることは難しい。各個教会では所属する信徒の状況を一番把握している信徒に牧会補助者となってもらい、信徒と牧師の狭間をつなぐ役割を担ってもらう。また、教会群には現教会委員会と同様の機能を果たす教会群会議が必要となろう。会議の構成メンバーは、教会群に所属する聖職と各個教会の牧会補助者で構成するものとし、この会議では、信徒に牧会的対応が必要となったときは当該教会の牧会補助者が当該信徒の信徒情報を会議のメンバーに状況を説明して牧会対応を協議し、必要な対応がとれる体制を整備する。また、この教会群会議では各個教会の活動情報の共有と教会群レベルでの活動の企画を担うことになろう。
教区組織が大きくなれば、司牧する教会も聖職も信徒も倍増し、全体の責任を負う主教の負担は大きくなる。これまでの小規模教区のように目は行き届かず、緊密な関係も取りにくくなるので、教区組織の改編も必須である。主教が各教会群の活動状況を把握するためにはその狭間をつなぐ教会群代表者会議なるものが必要と考えられる。この会議の構成メンバーは、教区主教と各教会群の代表者(常置委員長や教区事務所総主事の参加も要検討)で構成するのが妥当である。この教会群代表者会議は各教会群の状況を報告し、教区会や常置委員会のような決議機関ではなく教区全体の状況を共有する機能を担うことになろう。
教会の総力を結集するチームミニストリー体制
各教会には専属の牧師がおらず、複数教会からなる教会群に牧師が派遣されるという状況下で、各教会が教会としての働きである「内なる羊の養い(牧会)」と「外なる羊への福音宣教」を果たすためには聖職並びに信徒の総力を結集しなければならない。
定住聖職のいない教会体制となって、牧師と当該教会との関わりが月に一度の礼拝や教会委員会だけでとなると、信徒の状況把握と牧会全体を牧師に依存することには無理がある。だからと言って聖職依存度が高く、自立できていない信徒に急に自立しろと放置することは信徒を躓かせることになり、教会が崩壊してしまうおそれがある。今の教会(信徒の群れ)を維持させていくためには、信徒にもできることを信徒が担い必要とされる対応を可能にするように整えなおすことが重要となる。私が所属する渋谷聖公会聖ミカエル教会も、2010年から定住司祭がいない管理牧師の体制を経験してきた。最初に定住聖職がいない管理牧師の体制を迎えたときは、少なからぬ混乱があった。主日にはどなたか司祭様が派遣されるものの、事前に当日の祭色に合わせたオルターの整備をしておかなければならないし、聖品(ミサワインとウエファ)が揃っているかを確認し、セットしておかなければならない。更には、週報の作成をだれが責任をもって行うか。いままで、その作業の大部分を定住聖職にお任せであったことにハタと気づかされた。オルターギルドを担う信徒、週報を作成する信徒を育成し、礼拝準備と後片づけの態勢を整えるように、また、週報については様式を検討し定型化すると共に、必要情報を期限までに担当者に集約してデータファイルを作成して教会に届けておき、主日の朝アッシャーがそれを印刷するように決めた。このようにして、主日の礼拝については、大きな支障が出ない態勢をなんとか整えることができたのであるが、残る大きな課題は牧会であった。信徒の状況、特に病者や高齢者がどのようにしておられるか、それをどのように把握するかという問題であった。このような経験を踏まえれば、今後教会群体制がとられた場合、牧師が群内全教会のこの作業を一人で担うことは無理であるから、前述した牧会補助者の存在がどうしても必要となる。牧会補助者が状況を見ながら、必要な場合には牧師と連絡を取り、対応を依頼する態勢を整えることが重要となる。牧会補助者が一人で教会の信徒全員の状況をウォッチングすることが難しい場合は、教友をよく知る古い信徒数名が分担して訪問や電話による問安を行うようにし、それを牧会補助者に集約する形も可能であろう。
定住聖職のいない教会体制で次に必要な対応は、平日に教会に詰めている人がないため、緊急の電話連絡や訪問に対応できないことへの対応であろう。平日教会に詰めることができる信徒がいればよいのだが、それができない場合の対応も考えておく必要がある。電話については、転送機能を充実させることで担当奉仕者への連絡が可能となるものの、対応内容については信徒ではできない事柄もあり、定住聖職のいない教会では牧会態勢の整備が喫緊の課題であることが痛感された。聖職者対応が必要と思われる場合、牧師に連絡を取り指示を仰ぐことができるものの、心の問題で信徒には話したくないような事柄もあるため、信徒では状況を把握できないこともあり、牧師との連絡・対応を考える必要がある。
専業聖職の負担軽減と聖職の働きの補強
聖職数の減少と信徒の高齢化が更に進むと、財政的にもひっ迫して聖職者への給与も滞るということも想定される。アジア・太平洋戦争中、戦後の困窮時には聖職者が学校の教員や職員を兼業して自活するということがあったことを想起するとき、将来においてもこの問題を考えておく必要があるように思われる。そもそも聖公会の教会は主教を中心とした聖職団と信徒集団とから成る共同体であるが、主教、司祭、執事の各奉仕職には信徒には代行出来ない特別の働きがある。従って、聖公会の教会において聖職者は将来にわたって必須の存在である。たとえ、給与が出せない状況が起きようともいていただかねばならない。教会財政がひっ迫した事態には無給聖職を増やす必要もあろう。無給聖職は以前から外国でも活用されており、それは必ずしも財政的理由からではなく、多様な宣教を展開するものとして実動している。特任司祭として奉仕の内容、勤務実態は様々なようである。
既に確認したように、教会は内なる羊の世話だけでなく、外なる羊にも目を向ける必要がある。明治期に日本に来られた宣教師たちの宣教計画は教会を作るだけでなく、教育、医療、福祉の分野をその働きの中にしっかりと据えていた。外なる羊との接点を重要視していたことが推察できる。教会が苦しい時、司祭をチャプレンに派遣することは控えたいとの意見も聞かれるが、教会の宣教を考えるとき、これからも教育、医療、福祉の現場との接点を大事にしたい。少数となった専業聖職者に複数の教会での仕事に加えこれらの働きをすべて押し付けることには無理がある。それをすればブラック企業並みの酷使となりかねない。かといって単に手を抜けば教会が機能不全となる。専業聖職の負担を軽減する最も有効な対策は特任聖職を育成することではないかと思われ、新たな仕事の分担をはかることで将来の道を開きたい。
既に機能している外国での特任司祭の実際を学ぶとともに、日本におけるそれぞれの場の状況に対応するあらたな特任聖職(無給、もしはパートタイム)の勤務形態を考え、育成して専業聖職の負担の軽減を図ることが必要であろう。
信徒の働き
教会の働きは多様であり、サクラメントの執行など聖職者でなければできないこともあるが、信徒にもできることは無限にあるといっても過言ではない。今まではその多くを聖職者に依存してきた。教籍簿の記載や管理、礼拝日誌の記帳や統計表のまとめと記載などの教会事務は牧師にお任せであった教会が多いのではないか。勿論これらの内容は個人情報に関するものであるため、誰もが勝手に手に触れてよいものではなく、奉仕者は研修を受け、守秘義務も負わなければならないが、牧師の監督下であれば決して信徒がしてはならないものではない。
洗礼を受け、信徒となった者はキリストの体につながれ、体の一部として何らかの役割を担う者であるという自覚をまず持つことが大事であろう。自分はどのような働きを担おうか、何が担えるかを各自が祈りのうちに神様に問う必要があるであろう。牧会補助者として奉仕するとか、教会事務を担うとか、オールターギルドの仕事とか、教会の留守番を引き受けるとかはハードルが高いと思われるかもしれないが、教会の奉仕は多様である。印刷発送作業とか、教会施設の清掃とか、特別な技能がなくてもできる奉仕もあるし、体力に自信がなく、礼拝出席が難しい方であっても、代祷表にそっての代祷奉仕などはできるのです。
いままで、すべてを聖職者に依存してきた信徒たちが、教会の働き人としての意識に目覚めて活動を開始すれば、将来大きな可能性が生じるものと明るい希望も見えてくる。現在聖公会神学院でもその点に注目し、「信徒の奉仕・召命コース」「特任聖職特別コース」なる講座が準備されている。専業聖職者と特任聖職者そして働き人としての信徒からなる構成、このような信徒も担う全員参加のチームミニストリを機能させて明日の教会を形成したいと思うものである。