前回のテーマ「赦し」についてもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。キリスト教では「赦す」という行為を重要なことと教えています。第4話でご紹介しました主イエス自身が教えられた「主の祈り」の中にも「わたしたちの罪をお赦し下さい。わたしたちも人を赦します。」とあります。赦すという行為は相手から何らかの不適切な行為を受けたという事実があり、それに対応するものといえるでしょう。神様に対して犯した罪があるから、わたしたちはこれを赦してくださいと祈るわけであり、人から嫌なことをされた事実があるから私はそれを赦しますと宣言するのです。イエス様の直弟子であったペテロが「兄弟が私に対して罪を犯したならば何回赦すべきでしょう。7回までですか?」とイエス様に尋ねたとき「7回どころか7を70倍するまでも赦しなさい。」(マタイ18:22)とのお答えが返ってきました。7回も赦すと言えば褒められるとペテロは考えたのかもしれませんが、お答えはそれを70倍するまででした。これは490回まで赦しなさい、491回目からはもう赦さなくてもよいといって居られるのではなく、無限に許しなさいという意味であると理解すべきでしょう。
しかし、私達は日々の生活の中で起こる残忍な凶悪犯罪、弱い者や正直者を食い物にする卑劣な行為等、赦し難い出来事、怒り心頭の出来事、また、他者からひどく傷つけられるという出来事に遭遇します。そのような場合「不適切な行為」を行った相手に対し、私達は、寛大に「あなたを赦す」という宣言はなかなかできるものではありません。まして心から謝罪していることを確認できないところでは赦そうという気になかなかなれません。たとえ、一方的に「赦す」と宣言しても心が通い合わない限り両者の間で和解が成り立つことはないでしょう。傷つけられた人にとっては、たとえ口先で謝ってもらっても自分が受けた痛みを理解していない人と心を通わすことは不可能のように思えます。
にもかかわらず、イエス様は自分に罪を犯した人を無限に赦しなさいといわれます。赦し難いというわれわれの思い、怒りはどのように収めることができるのでしょうか。主の祈りから「赦し」ということを考察すれば、まず、「私たちの(神様に対して犯した)罪をお赦しください。」とあり、それに続いて「私たちも(私たちに対して罪を犯した)人を赦します。」となっています。つまり、不完全な存在である人間は神様に赦されてその存在を認められていることを踏まえ、「あなた方人間は不完全であることを互いに赦しあいつつ相手の存在を認め、共に生きなさい」といわれているのだと理解されます。両者の間には「不適切な行為」があったにもかかわらず、それを乗り越えて互いの存在を受け止めあう関係になりなさいということでしょう。しかし、前述したように相手の謝罪のないところでは人間関係における和解は成り立たない、心から赦すということもできないのが人間ではないでしょうか。イエス様がいわれた「赦しなさい」という勧めは一足飛びに「赦し、和解しなさい」と命じられているのではなく、赦せないから、憎らしいからといって自分の中から相手を抹殺してしまうことなく、その存在を受け止め続けなさいと言われているのではないかと小生には思われます。なされた「不適切な行為」に目をつぶること、それを水に流して無かったことにするのではなく、事実をきちんと踏まえた上で、罪を犯した相手を自分の友、兄弟として受け止め続けなさいということだと思います。人を赦すということは自分の中にその人の存在を受け入れることであろうと私は思うのですが、それはその人を愛するということと同じことであり、私達には極めて困難なことであります。しかし、もし、罪を犯した者が愛する人、例えば自分の息子であったとしたなら、その人はその息子にどう対処するでしょうか。犯した罪に気づいて悔い改めて欲しい、罪を償って、まともな道を歩んで欲しいと願うでしょう。言って聞かせて分からなければ、殴りつけてでも目を覚まさせ、必死に気づかせようとするであろうと思います。切り捨てることなく当人に罪を理解させ、悔い改めて新しい生活を歩ませるための支援を一生懸命にするであろうと思います。まず私達に求められることは、すぐに赦す気になれなくても向き合い相手を受け止めることではないでしょうか。
私たちが生きて生活できている原点は、自分ではとれない責任をイエス様が代わって十字架に担ってくださり、罪深い自分をまず神様に赦して頂き、存在を受け入れて頂いたことに始まるとキリスト者は考えます。私たちが赦され、存在を認められた代償に十字架上でイエス様の血が流されました。赦すという行為には両者の間で苦しみを共有するという現象を伴うものなのだと思います。私たちも、人を赦す立場に立つときは犠牲を引き受けることが必要となるはずです。罪を不問にするのではなく、罪を犯されたにもかかわらず、その人を受け入れるためには、愛するためにはその人の気づき悔い改めへの支援と努力が求められます。そのことが無くしてお互いの和解という状況に至ることは出来ないのではないでしょうか。そして、私たちはしばしば知らず知らずに加害者となっているという逆転した関係になっていることにも気づかねばならないでしょう。
私達が傷を受けた場合には自分を守るためだけでなく、共に生きるために相手にそれを伝える勇気を、訴えを受けたときにはそれを謙虚に聴く勇気をもち、そして、問題に気づいた人は当事者を断罪するのではなく、互いに理解し許し合えるように支援する努力をしたいと思うものです。神様に赦されたもの同士が共に生きるために。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 ヨハネ13:34