1月8日(水)19:00より第1回ヒルダ・ミッシェル信徒講座が当渋谷聖ミカエル教会にて開催されました。当日は平日夜の雨天候の中、14名もの参加者が集ってくださいました。
講師の山田益男氏(日本聖公会新聞連載『門前の小僧』著者)から『働くということ~労働・職業~』というテーマを信徒という観点での解説があり、その後質疑応答や講座を受けてのご感想を分かち合うことができました。参加者の皆様、雨の中また寒い中でのご参加本当にありがとうございました。運営の至らなかった点は改善していきますので、ご意見やご要望などございましたらお気軽にご連絡ください。
次回1月15日(水)19:00は布川悦子氏(日本聖公会神学院 講師、真生会館聖書センター勤務)を講師に迎えて同じテーマを聖書という観点で解説します。

働くということ(労働・職業)

                      P.山田 益男

§1 人は何故働くか?

人が生きていくためには「働くこと」は必須要件のように思われます。人として独り立ちする準備期間である幼児期は別として、成人した者は自らと家族を養うために職業を持って働きます。人は衣・食・住が整えられないと健康で快適な生活はできませんから、働くことによって収入を得、それを用いて衣食住の必要を満たしています。

人の働き方を歴史的に見てみますと、随分と変わってきています。原始社会においては、自給自足の生活ですから、自然界にあるものを採って食し、また、それを自分で加工して衣服や住居を作って生活していました。個人行動から集団を組み協力して労働を担うようになり、人口が増えてくると自然界に自生するものだけでは不足するようになり、人が手をかけ(労働し)、農業技術、牧畜技術、植林技術といった食料や資材を増産する一次産業が生み出されてきました。次に、効率化や高品質化の要を満たすため自給自足は分業化へと進み、物々交換、さらには貨幣を介した売買による互いの必要を満たす形態が生まれました。労働の対価として収入を得る働きを職業と呼びます。産業形態としては、一次産業で生み出された産物を入手し、それを加工して販売するという二次産業が生まれ、更にはサービスを提供する代わりに対価を得るという第三次産業という形態も生まれ、経営者の立場、従業者の立場でそれに従事するという社会構造が作られ、職種が社会的地位に関係するという現象も生じました。

現代社会は「働く」という形態が多様化していますが、基本的には人は何らかの職業を持ち、社会で必要とされている労働(頭脳労働やサービス等を含む)を提供してその対価として収入を得て、衣食住に必要なものを買い、生活を営むという形態がとられています。働きの形態は変化しましたが、人が生きていくうえで必須となる衣食住の要を満たすために人は働くという点では一貫しているといえるように思います。

§2 人生における「働くこと」の占める比重

人生において「働くこと」が占めている時間的比率は大きいといえます。平均な日本の勤労者の1日8時間労働を考えた場合、それに伴う通勤時間や7時間程度の睡眠も必要であり、残る時間を家族や友人と過ごす団欒の時間や読書・趣味といった文化的なあるいは娯楽の時間等に割り当てています。時間的割合から見れば人は活動している時間の大半を働く時間に当てており、人生のかなりの部分を占めていることになりますから、「どのように働くか」は「どのように生きるか」に大きく関係してくると思われます。

§3 職業についての人の考え

今見てきたように社会構造が複雑化したとはいえ、人間がその社会の中で活き、自らを含めて家族を養っていくためには「働くこと」すなわち、職業に就くことは必須であり、この場合の「働くこと」の基本的意味はまずは衣食住を満たすことにあることは確かなことであるとしても、人はそれだけのために働いているのでしょうか。衣食住に必要な収入さえ得られれば、「人の労働」はそれで足りるといえるのでしょうか。社会には専業主婦という方もおられますが、家事という労働、かなりの重労働を担いますがその見返りに給与を得るということはありません。その点で主婦業は職業とは言えないでしょう。勤労者と異なり、主婦の「労働」は収入を得るためではなく、家族の生活を支えるために働いているといえます。

また、職種には対応する報酬、社会的評価といった社会現象が伴うことから、職業選択に際して人は、やりたい職種というだけでなく、生活をより豊かにし、より快適にするためにより多くの収入を得たい、また、より高い社会的地位(ステータス)を確保したいという思いが生じ、職業の選択には「富と名誉の欲求」がついてまわることにも注目したいと思います。

職業についての人の考え方を見てみますと、生活してゆかなければならないので、仕方なく職業に従事するが、生活に必要な給料を頂けたならあとの時間は自分のしたいことをして人生を送りたいという人がいます。この場合のしたいこととは何かといえば、充実した人生を送るために自分が意義を感じることに時間を使いたいという方もおられますが、最近の若い方の中には、好きなことをし、楽しい人生を過ごしたいと考えている人(レジャー志向)も少なくありません。自分のしたいことをする資金を得るためにだけ働くという割り切った考え方です。日本人の一般的な考えは、当初は生活のことを考え、自分に向いていそうな職業を選択したが、働くうちに自分の仕事に誇りを持ち、仕事をすることに生きがいを感じるようになったという方が多いのではないでしょうか。私などもそうであったように思えます。

仕事に打ち込む中で「納得のいかない半端な仕事はしない」といったいわゆる職人気質といわれるものが生まれてきます。前者の人にとって「働くこと」は生きていくための必要悪であり、後者の人にとっては「働くこと」は衣食住の要のためだけではなく、生きがいというそれ以上のものとなっているように思われます。では、後者の人の思いはどこから出てくるのでしょうか。よい仕事をすると依頼人から喜ばれ、それが生きがいとなっていることが多いようです。自分の仕事に対して他者から感謝されるということが、自分の仕事が人から高い評価を得ているということが社会の中にあって自分が必要な人間、価値ある存在として認められているという安堵感・充実感となっているのではないかと推察されます。

§4 主イエスの働かれた姿

以上、「働くこと」について一般社会学の見地から問題整理をしてきましたが、主イエスご自身は地上生活でどのように働かれ、人が働くことをどのように考えておられたのでしょうか? この見地から「働くこと」について観てみたいと思います。主イエスの若年期の事柄を記している聖書はルカによる福音書のみですが、そこには12歳のとき両親に伴われエルサレムの神殿に参拝された逸話が記されており、その後「ナザレに帰り両親に仕えてお暮しになった。」と記されています。父ヨセフの職業は聖書に記載はありませんが、大工であったと伝承されていますから、主イエスは公生涯に入られる前、ナザレで父の大工の仕事を手伝われていたと思われます。親元にあってまだ一人理立ちする歳ではなかった頃、父の家業を息子が手伝うのは自然なことと思われていたことが推定されます。当時のユダヤの家は木造ではなく、石を土台としその上に石もしくは煉瓦を積み上げて作るものですから、我々日本人の考える大工さんとは違うイメージのようですが、とにかく若い時はヨセフさんの家業の手伝いをされておられたのでしょう。しかし、ご自身はその家業を継がれることはなく、成人されると「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい。」と福音を述べ伝える働きをなされ、最後に十字架による贖罪の業をなされて人としての生涯を終えておられます。養い親ヨセフさんの家業を継ぐことではなく、天の父なる神から委嘱されたメシアすなわち、救世主たるキリストとしてのお働きをなされました。職業の選択というよりは父なる神の御心に従った生き方をされたといえるでしょう。では、その際の衣食住はどうなされたかといえば、聖書に直接的な記載はありませんが、旅の先々で、受け入れてくれる人の家に泊まり、出されるものを食べたと推定されます。そして、主イエスは「働き人が報酬を受けるのは当然」と考えておられたようです。そのことは、72人の弟子を各地に派遣されるに際して心構えを教えられた時に「同じ家にとどまっていて、彼らから出される物を食べ飲みしなさい。働き人が報酬を受けるのは当然だからである。(ルカ10:7)」と述べておられることから分かります。異邦人伝道をになった初代教会の聖パウロも基本的に同じ考えですが、自身はテント作りの仕事で自活することにこだわったようです。

§5 人が働くことを主イエスはどのようのお考えであったのでしょう

ところで、主イエスは「人はパンだけで生きるものではない。」といわれましたが、この言葉から「人は衣食住を満たすだけの人生を歩んではいけない」と主イエスがいわれているものと私は理解します。この言葉は主イエスが荒れ野で40日間の断食をされた後、「神の子なら石をパンにしたらどうだ」という悪魔の誘惑に対して答えられた言葉でありますが、そのあとに続く言葉は「神の口から出る一つ一つの言葉で生きると書いてある。」です。どこに書いてあるのかといえばそれは申命記8章2-3節ですが、これは40年の荒れ野の放浪中飢えたイスラエルの民にマナが与えられた時のことを思い起こさせる言葉で、「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」と記されており、更に12-14には「あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる。そういうことがないように。」と記されています。要するに裕福になるとこの世の生活に満足し神を忘れてしまう人の心を戒めた聖書の内容です。この聖書の箇所を背景にして、主イエスが「人はパンだけで生きるものではない。」といわれた趣旨は、肉体の糧はパンであり、霊の糧は神様のみ言葉であるから、肉体と霊との融合体である人間にはその両方が必要なのだといわれていると解されます。体を養うために収入を得ることは必要だが、より豊かに富を占有したいという思い、また人から尊敬される者となりたいという思いは自己中心的となり、神様から遠ざかる要因となる。肉体はいずれこの世の生を終えたときに朽ちていくものであるが、その時、朽ちない存在は霊であることを覚え、霊なる存在でもある人は、神様のみ言葉に聴きしたがって生き、しっかりと自らの霊を育てるように心がけなさいといわれているのだと思います。

主イエスが示される人の働き方とは、自分や家族の生活のためだけでなく、神と人とに喜ばれる仕事をすること。すなわち、生活に必要な収入を得ることだけに関心を持って仕事をするのではなく、提供する相手にも喜ばれる良い仕事をすること、社会に貢献できる仕事をするという、奉仕の精神を伴って働くことが大事だといわれているのではないでしょうか。人がその様に働くとき、自らもなす仕事に納得がいき仕事に生きがいを感じることができるのではないでしょうか。

§6 自らの仕事についての自己理解

ただ、複雑化した現代社会の中では個人の仕事は細分化され、社会への貢献が見えにくい、また、他者の目からは隠され認められないといった事情もあり、なかなか、自分の職業に生きがいを感じることができないという方も多いでしょう。しかし、どんな仕事であれ社会から必要とされているから、仕事が任されるわけです。例えば、製造ラインの中で部品をビスで本体に取り付けるという単純作業を担っている人の場合を考えますと、部品がしっかり取り付けられていることは実は製品にとって大事な要件となっているのです。ビスの締め具合が不十分であったためこの部品が振動で緩み外れてしまって大事故を起こしてしまい、事故が起こって初めてつまらないと思えた作業の重要性が認識されるということもあります。一見つまらない仕事と思えても、工程において分担される作業はみな、それぞれに必要部分を担っているのです。働く者は自分の仕事が社会に対してどのような意味を持ち、責任を持っているのかをしっかり認識しておくことが重要であると思います。たとえ他人から認められにくく、感謝されることがないとしても、働く者は自らその仕事の重要性を認識するとともに、神様はそのことを知って見守っておられることを意識し、奉仕の精神をもって働くことが大事だということでしょう。すなわち、キリストに倣う者の働き方とは、職業を単に生活のための収入を得る手段との認識を超え、人に感謝されたり、人から高い評価を受けることに意味をもたせるのでもなく、自らに任されている仕事を神様と社会に対して責任をもって果たそうという姿勢で働くことが大事となるではないでしょうか。

§7 キリスト者の働く姿勢

奉仕の業(ディアコニア)は教会が当初より大事にしてきた働きであり、神様の御心に沿って働くということは霊を備えた人間としての健全な姿であると思いますが、職業を通して奉仕(ディアコニア)の業をなすということは必ずしも容易ではありません。と申しますのは、職業は働きに対してその報酬を得るという関係にあるため、働けば働くほど収入が増えることになり、奉仕よりもそちらに心が奪われる危険性を持っています。富への欲望を掻き立てる誘惑がおこり、職業はなかなか、純粋に奉仕の業とはなりにくい構造上の問題があります。そこで、キリスト者には職業とは異なる仕事、無償の「奉仕の業」を担うことも大きな意味があると思います。それは私たちが主イエスの業のお手伝いをすることによって、キリストの体に連なる者とされ、永遠に生きるもの(霊なる存在)とされるためです。ところで今日における主イエスの業のお手伝いとは何かといえば、それは復活して昇天された主イエスが、弟子たちに対して再び世に来られるまでの間に「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。(マタイ28:19)」と言い残された仕事のことがまず頭に浮かびます。これは教会の直接的な使命です。この宣教の業はキリスト教信仰を広め、信徒を増やす直接的なキリスト教宣教という狭い事柄を意味していないと私は思います。主イエスご自身がなされたように、この世の歪みの中で小さくされ、苦しめられている人に寄り添い、共に歩みながら、福音を伝えることが含まれていると理解します。ですから、直接的に教会がかかわっている働きに限らず、社会奉仕のボランティア活動などもこれに該当するといえるでしょう。

§8 キリストの体の一部を構成するものとして働いて生きる

教会とは、神によって呼び集められた者たちの群れ(エクレシア)であり、私たちキリスト者はキリストの体(コルプスクリスチ)である教会に連なる者とされ、それによって死なない存在となれるとされています。(エフェソ1:23、コリントⅠ12:27)。そして、体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である(コリントⅠ12:12)とされ、私たち一人一人はキリストの体の部分を構成していると教えられています。体の部分でありますから当然に各部分はそれぞれに担う役割があるのであって、それが何であるかは各自が神様の導きのうちに聴きとらなければなりません。それが召命(コーリング)ということになります。召命は聖職者が感じとるもので信徒には関係がないと思われる方が多いかもしれませんが、それは間違いだと思います。キリスト者は皆神様に対面して自らのコーリングを確認することが必要なのです。まずは、私は信徒としてどのようなお手伝いができるのでしょうかと。与えられる任務はそれぞれに異なりますが、それを聴いて果たすことが「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」生き方となり、私たちが朽ちることのない霊なる存在として健全に生きることになるのだと思います。その任務は職業である場合もあるでしょうし、そうでない場合もあるでしょう。むしろそうでないことの方が一般的といえるかと思います。その際、その任務を果たす過程でその奉仕の業を実行する主体は自分ではなく主イエスご自身であり、私たちはそのお手伝いをしているだけであることを自覚することが重要であると思います。そのことによって、私たちが小さな不完全な者であるにもかかわらず、神様から必要なものとして用いられ、キリストの体に連なる者とされている実感を味わうことができるのだと思います。また、このような意識で働くことにより、自分はよいことをしているという思い上がりや、奉仕において耐えられないような重荷を背負い込み、潰れてしまうことから解放されることにもなるのだと思います。

§9 おわりのことば

今日は、私達が生きる過程で当然のことと思って見過ごしている「働くこと」-労働・職業-に焦点を当て、キリスト者であるならば、どのように働くべきか、主イエスはどのように働くことを私たちに望んでおられるのかいうことを考えてみました。

今日の講座は、私のつたないお話ではありましたが、皆様それぞれが、ご自分の仕事について改めて思いをいたし、主イエスが自分に求めておられる働き方はどのようなものであるのかを問い直す機会となれば幸いであります。

皆様には「ご自身の働き」についての意識を整理された上で、次週の「聖書の観点から」次々週の「霊性の観点から」の講座に進んでいただきたいと希望します。