日頃は無神論者を自認する日本人が正月ともなると神社仏閣に初詣なるものをする。

決して信仰に目覚めたというわけではない。

 新年を迎え、古い年の垢を落とし改まった気持ちで新年の生活を始めたいという思いのようである。

 手を洗い、口を濯いでさっぱりした気持ちとなって神殿の前に進むと、手をぱんぱんと打って頭を下げ、それぞれに何かのお願いを念じる。

家族の健康、仕事の成功、いわゆる無病息災、家内安全、商売繁盛、良縁祈願、合格祈願などなど。

 このときは単に欲張りなお願いをするというわけではなく、「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼれる」との西行法師の歌に通じるような気持ち、普段とは違う神妙な気持ちも起こるようである。

 その気持ちとは、神の前に立ち、自らの有り様を省みるという気持ちまではないが、自分達人間を越えるもの、「神」とは呼びたくないが天なる絶対的存在を仮想して神妙な気持ちになるようだ。

 

 この初詣は別として、普段自分の問題として考えようとしていなかった人が、宗教というものを意識するきっかけ、機会というものに着目してみると、まず第一に親、兄弟、配偶者、子供といった身近な人を亡くしたときがあげられる。

「長年一緒に生活した人が、愛する存在であった人が一体どこへ行ってしまったのだろうか?」という素朴な疑問が自分の問題として突きつけられる。

 普段無神論者を自認している人もこのときばかりは亡くなった人がすべて無に帰したとは思えないようで、地上の世界からはいなくなったが、どこか見えない世界に行ってしまったと感じるようである。

 この感覚は人のDNAに刻み込まれているというか人間が本来的に備えているものと思われ、かなり重要なものであると私には思えるのである。

 

 第二には、元気であった人が突然の病に襲われ、他者の支えなしには生きていけない状況に見舞われ、自分の非力を突きつけられたときも宗教というものを考える機会となっているようである。

このとき、人は自らの力だけで人生を全うすることができないもの、一人では生きていけない存在であることを思い知らされ、今まで自分には無縁であると考えていた宗教について考え始めるようである。

 

 第三には、特に日本人に多いようであるが、生き甲斐を仕事に見出してがむしゃらに走りつづけた人が、停年を迎え、もう明日から出勤に及ばずという状況に立たされたときなどである。

 生き甲斐を取り上げられたことによって虚脱感に襲われ、今までの自分の人生は一体何だったのだろうかと人生の意義を改めて考え始め、宗教へ目を向けるようである。

 このとき人は既に自分に与えられた地上での時間の大半を使ってしまっている。

しかし、遅すぎるということは決してないのである。