日本人には「悟り」を得ることによって、人間の弱さや、愚かさ、日頃の悩みや苦しみを克服できるようになると考えている方が少なからずおられる。
我々凡人の目からすれば、世の出来事に泰然自若と少しも騒がないような人、大人(たいじん)と見える人に遭えば、悟りの境地に至ったすごい人だ感心し、いつかは自分もああなりたいものだと憧れを抱く。
仏教ではよく悟りということを問題とされると聞く。
そこで、門外漢の私は百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で仏教の悟りについて調べてみると次のような説明があった。
仏教の悟り (さとり、覚り)は、原語のサンスクリットでは、bodhiボーディである。
日本語・漢語では「菩提(ぼだい)」「覚悟」「証(しょう)」「修証(しゅしょう)」「証得(しょうとく)」「証悟(しょうご)」「道(どう)」「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」「無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)」などの別称もある。
真理(法)に目覚めること。迷いの反対。
さとりは仏教の究極目的であり、悟るためにさまざまな修行が説かれ実践される。
仏教の悟りは智慧を体としており、凡夫(ぼんぶ)が煩悩(ぼんのう)に左右されて迷いの生存を繰り返し、輪廻(りんね)を続けているのは、それは何事にも分別(ふんべつ)の心をもってし、分析的に納得しようとする結果であるとし、輪廻の迷いから智慧の力によって解脱(げだつ)しなければならない、その方法は事物を如実(にょじつ)に観察(かんざつ)することで実現する。
これが真理を悟ることであり、そこには思考がなく、言葉もない。
釈迦(しゃか)は多くの哲学者や宗教家の教えを受け、苦行にも専念したが悟りを得られなかった。
そこで今までの修行法をすてて、尼連禅河(にれんぜんが)で沐浴し身を清め、村娘スジャータから乳粥(ちちがゆ)の供養(くよう)を受けて河を渡り、対岸のピッパラ樹の下で坐禅をして禅定に入った。
その禅定がしだいに深化し、三昧の中で「三明」が顕れ、真理を悟ることができた。
これによって釈迦は悟った者(覚者)、すなわち「ブッダ(仏陀)」になったのである。
この悟りの境地を「涅槃(ねはん)」といい、それは「寂静(じゃくじょう)」であるとされる。
煩悩が制御されているので、とらわれのない心の静けさがあるということである。
哲学的な思考でなく、言葉にもよらない行を通してのアプローチ。
お釈迦様は坐禅をして禅定に入り、その禅定がしだいに深化し、三昧の中で「三明」が顕れ、すべての真理を悟ることができたという。
我々にとって極めて魅力ある「悟りの境地」であるが、禅定を深化させてすべての真理を悟ることなど小生のような凡人にはとてもできそうにないので、残念ながら断念せざるを得ません。
キリスト教ではあまり「悟り」ということを問題とすることはないように思います。
有り難いことに神様から永遠の命(合格点)を頂くためには「悟り」が必要という教理はないのです。
しかし、聖書においても「悟りなさい。」という言葉が度々使われています。
これはすべての真理を悟る「悟りの境地」に至りなさいという意味ではなく、単にその事柄に「気づきなさい。」「理解しなさい。」という意味で使われているようです。
この個々の事柄についての悟りというものはやはり重要なことで、人生における個々の躓きを乗り越える手立てであると思います。
悟りといえるかどうか分かりませんが、小生の貧しい人生経験においても「大きな気づきを頂いて、自由にされた。」という出来事がありました。
それは我が家系の中である病気を発病するという現象が続いたことがありまして、私の家系にはその病気にかかりやすい体質が遺伝されており、自分も何時その病気を発病するか分からないとの恐怖感に苛まれておりました。
病気になれば、家族に負担をかけることになるから、自分は家族を持つことを諦めねばならない。
友人達が次々と結婚していく中で、自分は異性を好きになってはいけないのだと愚かな考えに苛まれ、あたかも自分が呪われた存在であるかのように思って暗い日々を過ごしていた時期がありました。
そのとき日頃からご指導を頂いていた司祭様から
「君は自分でとれない責任をとろうとしている。神様にもっと信頼をおくという姿勢が大事ではないか。」
と諭されたのです。
この一言が、ガーンと小生を一撃し、目を覚まさせてくれたのでした。
自分にとれない責任をこざかしい人間の知恵で対応しようなどということは神様を必要としない傲慢な態度であり、教会が教える罪に他なりません。
あるがままの自分でよい、結婚する相手には自分の状況を隠さず説明し、病気になったらお互いにサポートするという了解ができれば何の問題もないことなのでした。
悟ってみればどうということのないことですが、当時の私には重く立ちこめていた心の暗雲が吹き払われて青空を取り戻したような感動でした。
この様に人は些細なことに躓きますが、本人には結構深刻な問題となっていることが少なくありません。
小生にとって悟るとは「理解する」というよりは「呪縛から解き放されて自由になる」ことという表現が合うように思えます。
お釈迦様のようにすべての真理を悟ることはできなくても、凡人は一つ一つのつまづきから解放されて少しづつでも霊的に成長し、本来の自分自身の姿を求めつつ自分像を刻んでゆきたいと思うものです。