この世に生を受けた者は、誰でも例外なく死を迎える時が来ます。その時まで、人はこの世の人生を歩み続けるのですが、自らに与えられた時間どのような人生を歩むべきか。これは人間に課せられた永遠の問題であるといえるでしょう。はっきりした答えが出せないとしても、自分の人生は意味あるものでありたいという気持ちは多くの人が持つものです。しかし、限りある人生にどのように意味付けをするのかとなりますと、各人の価値観によって千差万別となるように思われます。

苦しい人生より楽しい人生を送りたいと人は望みます。では楽しければよいか、一生面白おかしく生きられたなら人生満足だと思われる方もおられるかもしれません。しかし、人間が生きる現実はそんな甘いものではありません。楽な時もありますが、それぞれに苦労を背負いつつ歩まなければなりません。たとえ、幸運にも何も労苦も感じない人生であったとしても、必ずしもそれだけでは人は満足できないと思います。それは楽しい人生が意味ある人生、充実した人生には直結しないからだと思います。ところで、これが楽しい人生ではなく幸福な人生であったならどうか、となりますと人生の充実度はかなり高くなるのではないでしょうか。そこで、今回は幸福って何か?ということを考えてみたいと思います。

人生は、成功を勝ち取るための競争(勝ち組/負け組ゲーム)のようなものと考え、勝ち組となるためには一生懸命勉強して良い学校に入り、自分を磨いて他者からの高い評価を得て良い就職先、地位を獲得することが人生成功の道と思っている人が今の日本には少なくないように思えます。確かに高い知識と能力を備えた人は、この世の価値観の下で有能な人材と認められ、高い収入が保証され豊かな生活を満喫することができるかもしれません。しかし、それが人の幸せといえるのでしょうか。人の本当の幸せとは一体どんなものなのでしょうか。

人が幸福と考える尺度として幸福度指数なるものがあるそうですが、最近はブータン王国の国民が第一位という調査結果があります。かなり下位にランキングされているわが日本国民への調査では、幸福を感じる要素として、第1に健康(約70%)、第2に家計(約65%)そして第3に家族(約65%)をあげているとのこと。いわれてみれば、私たちの意識としては当たらずと雖も遠からずかなという感じが致します。これに対して、95パーセントが「自分は幸福」と感じているというブータン王国の国民の幸福感の第1の要素はお金でも健康でもなく、人間関係、隣人関係、家族関係の平和と交流(コイノニア)だそうです。GDP(国内総生産)が日本の20分の1、生活環境も日本より快適とは思われないブータンの状況を考慮すると、日本人より健康がしっかり守られ、家計が豊かだとはとても思えません。日本人が三番目に挙げている「家族」という要素で両国民の幸福感は一致するように思われますが、これもよく見ると少し違うようです。日本人が家族を挙げた意味は「家族との良好な関係」、「家族の健康」であって、要するに身内に関する問題として認識されていると推測されますが、ブータン人は家族に限らないコミュニティー(共にある者の群れ)の関係を重視している点に違いがあるようです。ブータン国民の気質、習慣、文化は、接する人同士の深い信頼関係の中で培われたものだそうで、信頼関係の中にあるならば、たとえ貧しくても、また健康でないとしても、また、身寄りがない人でも、コミュニティの一員として幸福感を感じることができていると推察されます。信頼関係の中で安心して生活できる環境こそ平和の基本であり、その中で、孤立することなく共にある存在でおられることにブータン人は幸福感を感じているのだと解されますが、これは国教であるチベット仏教の教えと無関係ではないと推察されます。

自分及び家族の「健康」と「豊かな生活」と「家族間の良い関係」が得られた状態にあるとき、人は幸福であると思っている私たち日本人が見失っている幸福の神髄をブータン人の幸福感は示唆しているように私には思えます。

第19話で「人は神と富とに兼ね仕えることはできない」というお話をしました。キリスト教は人の幸せは、富を得て豊かな生活を満喫することではなく、整えられた環境の中で健康でいられることでもなく、イエス・キリストと共に生きることだと教えています。「イエス・キリストと共に生きるって、どういうこと?」とクリスチャンでない人は疑問に思われるでしょう。

例によって、小僧の70点解説をいたしますと、自分の価値観に基づいて歩むことを止め、主イエスの御言葉と生きざま(愛の法則)を学びつつ、自らが置かれている状況の中に、もし主イエスがおられたならば、どのように生き、対応されるだろうかと祈りの内に推察し、自らがそのように歩むことだといえると思います。主イエスが教えられた人の生き方は「父なる神様に信頼をおき、神様と人に対して愛をもって仕える生き方」であるといえるでしょうが、私たち人間は主イエスのように完璧な愛をもって生きることはできません。ですから、クリスチャンは祈りの内に神の御心を聴き、仲間と共に主イエスがなされている働きの中で、自分にできるお手伝いをして、主イエスと共に歩むのです。そして、その働きの主体は自分たち人間ではなく、主イエスご自身であると認識します。自らが主イエスの働きを担うコミュニティのメンバーの一人として受け入れられ、用いられていることを実感するとき、個人としてではなく、キリスト・イエスという木の幹に連なる枝としてクリスチャンは平安の内に真の幸福を味わうことができるのだと思われます。