復活された主イエスは40日の間度々弟子たちに御姿を見せられたことが聖書に記されております。復活された主イエスは、「わたしが世の終わりまであなた方と共にいることを信じて、福音を全世界に述べ伝えるように」と弟子たちに命じられたと聖書は伝えています。その後、「あなた方に聖霊が下ると力を受ける」と弟子たちに告げられて天に昇られ、その後は、弟子たちに復活の御姿を顕されることは無くなりました。五旬祭の日が来ると弟子たち一同の上に聖霊が降り、この聖霊降臨の後の弟子たちは、それまでとは大きく様子が変化したことを使徒言行録は伝えています。どのように変わったのかといえば、臆病で、自信なさげであったものが、社会に向けて積極的に主の福音を述べ伝え、主イエスの復活の証人となって宣教活動に励むようになったというのです。

ただ、聖霊が降ったことにより、物分りの悪かった弟子たちがたちどころにすべてを悟ったとは思えません。この出来事によって、主イエスの受難と復活の真理をたちどころに理解したのではないと小生は推察します。そこに思いが至るまでには、おそらく弟子たちは聖霊のみ助けを受けながら、未消化であった生前の主イエスの教えや言葉をもう一度反芻しなおす過程の中で、徐々に真理が解明されていったものと推察いたします。

主イエスが、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」の宣言で始まり、律法学者やファリサイ派の人々のように、頑ななまでに律法の遵守を求める形骸化した当時のユダヤ教の堅い掟の壁を破り、「心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くして主なる神を愛しなさい。」と「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。」という愛の掟にまとめられたこと、謹厳な裁きの神ではなく、愛なる神を強調し、世の中で、小さくされ、弱くされている者に寄り添い、励まし、癒されたこと、そして「心の貧しいもの、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々は幸いである。」と教えられたこと等を弟子たちは一つ一つ思い出し、聖霊の導きのもとで主イエスの教えを学び直したものと推察されます。

そして、神から遣わされたメシアである主イエスが何故、十字架上で神様からも見放されたように死ななければならなかったのか、この大いなる疑問を必死に父なる神様に問い質したであろうと思われます。十字架上で何の抵抗もせず、ただ苦しみを耐え死んで行かれた主イエスの有様を思い描く中で、弟子たちはそれがイザヤの語る「苦難のしもべ」の姿に重なっていったのではないでしょうか。神様は聖霊を通して、弟子たちに人が罪から解放されるには律法を遵守するといった人の努力では叶わないこと、罪の赦しのためにはユダヤ社会では慣例となっていた生贄(小羊)の犠牲を奉げる必要があること、その小羊は傷のない完璧なものでなくてはならないこと、しかし、人間には完璧な生贄を準備することができない故に、神が御子を遣わし、その御子を神の小羊として犠牲とすることによって成就される必要があったということを順々に教示されたものと推察されます。そして、そのことによって弟子たちは「主イエスの受難と復活」という人間に対する究極の神の愛について理解を深めていったものと解されます。