神様はまず天地(大宇宙)を創造され、人間が生きる場となる地球の自然環境を準備された。その地球にはあらゆる被造物が整えられ、最後に天地とそれらの被造物を管理するものとして神の形に似せて人間を作られ、この天地をはじめとしてあらゆる被造物の管理を人間にゆだねられた(創世記)。神の形に似せて作られた人間については、第13話で「神の形」とは一言で言えば「神の心を知ることのできる者」、すなわち、善悪を考え、他者を愛する心、美しいものを美しい、悲しいことを悲しいと感じる感性を持ち、自らの行動を決める自由意志、そして工夫をしてものを作る能力が備えられた霊なる存在であるとのお話をいたしました。この世の営みは、神ご自身が整備された環境の中で、神の形に作られた人間が、与えられた理性・感性(良心が含まれる)・自由意志とその器である体を活用してどのような社会を作り、どのように生きてゆくか、深い関心をもって見守られる中で進められる、天地創造に始まり世の終わりまで続けられる神様による御国建設の大事業のご計画のように小生には思えるのです。
人はといえば神の形に似せて作られているとはいえ、与えられた能力(タレント)は不完全なものであり、真理をすべて見抜き理解できる神のような知性は与えられておりません。また、自由意志なるものが与えられ、決して、神様の意のままに動く操り人形としても作られておらず、完璧とは言えない知性と感性を活用して、自ら考え、感じ取り、何らかの価値判断のもとに自由意志をもって、自らの行動を決めて行動するように作られています。神様が人に自由意志を与えられたということは、誰の目にも明らかな形では決して世に介入されることはないということを意味するものと解されます。
要するに、神様は人間を「神様の存在を否定することも、神様の導きを拒否することも可能な存在」として、また不完全故に間違いを起こす存在として人間を作られ、そのような危なっかしい存在である人間に神様は天地の管理を任されたのです。
人間社会で起こる様々な不条理な出来事、その様なことが起こるたびに、人は神様に助けを求めてきましたが、実際、神様は誰の目にも明らかとなる形で直接的に介入することはありませんでした。邪悪な心で善良な人を犠牲にするような明らかな不正行為に対してさえも、神様は何もしてくださらないように見える現実を見て、多くの人が神などいないと思うようになりました。
歴史を振り返れば、モーゼの律法を尊重し、立派な神殿を建設し、神に選ばれた民と自負し、神様は必ずメシアを送り自分たちを守ってくださると信じていた2000年前のイスラエルの民は、ユダヤ戦争で徹底的にローマ帝国に打ちのめされ、その希望を木端微塵に打ち砕かれてしまいました。
また、主イエスを神様から送られたメシアであると信じていた弟子たちも、主イエスがこの世の権力によって無理やり十字架刑にされても何も手を降さない神様に「何故ですか」と失意の中で信仰的に躓きました。
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、すなわち、その時代時代の状況の中で、そこに生きる人々と歴史を共に歩まれる神は、人との関わりにおいてはただ聖霊を送って人の感性に働きかけられるだけで、誰の目にも明らかな形で人間社会には直接手を下すことは控えるという鉄則をもって、世の終わりまで続くこととなる神の国建設のプロセスを人間にゆだね、じっと見守っておられるのだと小生には思えるのです。
何故神様はそのような鉄則を持たれるかといえば、神の働きが誰の目にも明らかとなってしまえば、人は神様を認めざるを得ない事態となり、人間に与えた自由意志が機能できなくなってしまうからだと言えるでしょう。
具体的作業は、神の形に作られた人間が与えられた理性と感性を用いて神様の霊的な導きの下で、自ら考えて判断し、その自由意志をもって進めるべきものであるはずです。それには、神の存在を感じて認める自由も、神の存在を否定して認めない自由も、善を行う自由も、悪を行う自由も保証された中で行われなければならないと考えます。因みに、初代教会の時代には、すべてが明らかとされる終末の時、キリストの再臨はすぐに実現されると弟子達たちは信じていました。しかし、それは今日に至るまで実現されていません。キリストが再臨されるのは世の終わりの時であるはずですから、今はまだ、神の国建設事業途上の時であると考えられます。