自我を捨て愛をもって神様に聴き従う生き方をした者には永遠の霊なる命が与えられるのかといえば、それはそれで正しい答えなのですが、その霊なる命は個人的な資格という形で与えられるものではないと考えられます。これは個人の悟りや、善行を救いの要件とする他の宗教と異なる、キリスト教の重要な特徴点であると小生は思っています。
私たちは、小さい頃から、人の評価を受けながら、成長してきました。子供の頃は大人のいうことをよく聞けば、よい子だと褒められ、教えたことをすぐに覚えれば賢い子だと、仲間を思いやれば優しい子だと大人たちから評価を受けてきました。学校に入れば、成績が良いと優秀な生徒だと教師や親から評価を得、皆それを励みに勉学に勤しんできました。就職した後も、上司の評価が自分の働き方を左右してきたと皆実感しているのではないでしょうか。この様な、訓練を長年受けてきた私たちは、知らず知らずのうちに、自分は他者からよい評価を受けることが競争社会で勝ち抜くための必須要件であるという観念が植え付けられてきたように思われます。
ですから、マタイ福音書22-22婚宴のたとえで語られている「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」のみ言葉を、その延長線上で自我を捨て神様に聴き従う生き方をした(礼服を付けた)者には個人的に永遠の霊なる命が与えられると理解しがちですが、永遠の命、霊なる命は神様から立派な個人に与えられる資格ではなく、人はキリストの体である教会共同体につながれていることによって死ぬことの無い霊なる命を保つことが出来るという理解が正しいと小生は信じています。ですから人は信仰によってキリストの体である教会共同体につながっていることが重要なのだと思います。

では、キリストの体である教会共同体につながっている状態とはどういうことかといえば、主イエスに従って生きること、すなわち前回述べましたように、自分でできることで主イエスの働きのお手伝いをする(宣教に参与する)ことといえると思います。主イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」といわれました。この言葉の意味は、主イエスは、世の営みが続く限り、その時代時代に生きるキリスト者の群れ(教会)と共にいて働いておられるということでしょう。2000年前、この地上で弟子たちと行動を共にされた主イエスは、父のもとに去るにあたり「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。(ヨハネ福音書14-15)」と告げています。この弁護者とは「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」であるとヨハネ福音書14-26に説明されています。要するに、キリスト者の群れ(教会)はキリストの体を構成しており、父なる神様が遣わされたこの聖霊がぶどうの木であるキリストの体を通して私たち人間に働きかけて教え導いてくれると言われています。主イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。(ヨハネ福音書15-1)」であると言われていますから、世界の教会はキリストのブドウの木全体に相当し、個々の教会はその枝であり、一人一人はその枝に結ばれた葉という関係になると象徴的に理解できます。主イエスがその時代時代に生きるキリスト者の群れ(教会)と共にいて働かれるということは、2000年前に人間イエスが歩まれたように、今も、その時代の歪みの中で生き難くされている人たちに寄り添い、世の価値基準に抗い、重荷を負う人の負担を軽くして共に生きようとする教会の中で先頭に立って働き続けておられるということでしょう。
とすれば、個々の教会はその時代、その置かれている状況を把握して、主イエスが生身の人間としてここに居られたならば何をなされるかを祈りの内に聴き、その働きの中で自らができる宣教的使命を見出し、その働きを担うことが求められていることになります。
神様に聴き従う生き方をしようとするキリスト者は、自分にできることで、主イエスの働きの手助けをする。要するに、ささやかながらも、主イエスの宣教に自分が参与することによって、キリストの共同体に連なる者とされ、個人としてではなく、キリストの体の部分として霊なる命に生かされるのだといえるでしょう。

第47話で「父なる神」は大地、「子なる神」は大地にしっかりと根を張った木で、その木の枝には葉のように人間(信仰者)がつながっており、「聖霊なる神」は木を介して大地から養分を葉に運ぶキャリアと考えられるというお話をいたしました。枝についた葉である私達一人一人は、父なる神様からキリストの幹を通して送られる聖霊という恵みによって養われております。また、樹木において一枚の葉は小さな存在ですが、葉には葉の役割があります。実際、樹木の葉には光エネルギーを化学エネルギーに変換する生化学反応である光合成という働きを担っています。光合成生は光エネルギー(太陽光)を使って根から供給された水と空気中の二酸化炭素から炭水化物を合成し、水を分解する過程で生じた酸素を大気中に供給しています。葉が樹木の一部として自らの役割を果たしながら生きているように、個々の人も単に洗礼を受けて教会の群れのメンバーに名を連ねていればよいというものではなく、教会の働きの中で自分にできることを担うこと、宣教の業に参与することによってキリストの体につながれ、霊なる命に活かされているということになります。事実、私たちは何らかの形で主の宣教の業に参与している時に、それが小さな業であるにもかかわらず充実感に満たされ、自分は主にあって活かされているという実感を体験することができるだと思います。