イエス・キリストは「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」といわれたのですが、人が神を愛するということはどういうことなのでしょう。

考えたこともないという方には掴みにくい概念であろうと思いますが、この愛は子が親に感じる愛に近いものといえるのではないでしょうか。

神への愛を理解するにはその前提として、神が人を愛しておられることをまず知ることが必要でありましょう。

人間界における愛の中で、「親子の愛」とりわけ母親のわが子を思う気持ちが最も神の愛に近いものといわれています。

それは母性として自己犠牲を厭わず子供を守り通さなければ、一人前の大人に育てなければとの気持ちが根源にあるからでしょう。

この母の思いと接し方は子供に安心感を与え、子供に母への信頼と依存心を起させます。

乳幼児は母の愛が注がれないと健全に育たないということは、多くの事例から明らかにされていることです。

親が真に子に求めることは親である自分を大事にして欲しいとか、偉くなって欲しいとかいう気持ちを越え、我が子が一人の人間としてしっかりと自己を確立して歩む姿を見せてくれることでありましょう。

その神(親)の人(子)に対する願いに応えようとする人(子)の思いこそが神を愛することに通じるのではないでしょうか。

聖書には人が神を愛することについての記述は多くないように思いますが、12弟子の筆頭であるペテロがサタン(悪魔)よ!とイエス様からひどく叱られる場面が出てきます。

「あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。(マタイ16:23)」

人の思いとは人間的な情に大きく左右されますが、神の思いは本来のあるべき姿を求める点で大きく違います。

人は神様が自分を受け入れ大切に思い、自分が成長すること、すなわちその人がその人自身に成長するように守り導いてくださっていることを知ることにより、父のような神を慕い、敬い、信頼して生きてゆく思いが生まれるのではないでしょうか。

イエス様は神を父(アッバ)と呼ばれました。

アッバという言葉はヘブル語で父という意味ですが、威厳ある父というイメージではなく、幼子が「おとうちゃん」と呼ぶイメージ、すなわち、信頼しきって父の胸に飛び込んでいくような時の呼び方です。

これが神への愛ということでしょう。

イエス様は生身の人間として最後のお仕事となる十字架に付けられる前、ゲッセマネという場所で父なる神に「できることならこの杯(十字架に架かること)を過ぎ去らせて下さい。でも私の思いではなく、御心のままになさってください。(マタイ26:39)」と祈られます。

これこそが神への愛の究極でありましょう。

生身の人間として死を受け入れたくはないという当然の思いがありながら、それがなさねばならないこと、神の御意思であるならばそれを受容するという神への徹底した信頼と従順の気持ちです。

これがキリスト教の教える愛がヒューマニズムと決定的に違ってくる点であるといえるでしょう。