神様は人を神の形に作り、自ら作られた地上(宇宙を含む全世界)すなわち、この世を人間に管理させるようになされた。

この世に生を受けた人間はこの世の存在としての体と神の形としての霊とが備えられ、限られた時間与えられた状況の場でそれぞれの思いと決断を重ねつつ人生を歩むこととなるのですが、キリスト教には「最後の審判」といわれる教義があります。

それは平たく言えば人生を終えて神の前に立たされたとき、その人が生きた人間であるか死んだ人間であるかの審判がなされるという内容です。

死んでから立たされるのだから、当然皆死んでいるなどと単純に考えないでください。

ここで問われる「生きているか、死んでいるか」という内容は生物学的な命ではありません。

そもそもキリスト教が問題とする命とは生物学的な命ではなく、体は朽ちても本物の人間として朽ちることのない霊なる自己が確立できているか否かということです。

この最後の審判は日本人には子供の頃絵本で見たり大人達から聞かされた閻魔大王による極楽行きと地獄ゆきの裁きの話とイメージがダブるのではないでしょうか。

昔大人から伝え聞かされた閻魔様は死んだ人間一人一人に「お前は生前どんな行いをしてきたか」と問うという話で、人生を総括し善い行いをしてきたか悪い行いをしてきたか天秤にかけられて判定され、善人は安楽な世界に送られ、悪人は釜ゆでや火に焼かれる責め苦に遭わされるという内容であったように記憶しています。

かつての同僚が郷里で過ごした幼児期に、お寺の日曜学校に通い、和尚さんから地獄絵を見せられ、悪いことをするとこの様な地獄へ送られるのだと聞かされ、子供心に「恐ろしい、悪いことはしないようにしよう」と思ったものと懐かしそうに話してくれました。

キリスト教の中でもルネッサンス期に描かれたミケランジェロの作「最後の審判」(バチカン:システィーヌ礼拝堂のフレスコ画)では彼自身が皮一枚にされるというこれと似通った描写がなされていますが、聖書には地獄の責めを連想させる記述は見当たりません。

ヨハネ福音書第5章、テモテへの第2の手紙4章、使徒行伝第10章42節などの記述からは最後の審判では裁く方がイエス・キリストであること、なされることはその人が生きているか死んでいるかの判定であると記されています。

マタイ福音書第25章31-46には人を羊と山羊とを分けるように、いと小さな人に援助の手をさしのべた者としなかった者に分け、いと小さな人にしたことはすなわち私(イエス・キリスト)にしたことであるから、前者には永遠の命を後者には永遠の罰(死)を与えると記されている。

これは生前の行いの善し悪しが問われているように聞えるかもしれませんが、そうではなく、弱い者、小さい者の存在を心の中に受け止め、大事にする生き方をしてきたか否か(生きる姿勢)が問われていると考えられます。

それが霊なる人として健全に生きていることを見分けるバロメータとされるということであろうと小生は考えています。

小僧の70点解釈で少々乱暴にしかし分かり易く申しますと、この世の損得を考える人は権限を持った地位の高い人、お金持ちを大事にすれば、いつか自分にもその人からお裾分け、お返しが廻ってくるとのさもしい期待が意識下にあり、視線をそちらに向け、こびへつらいます。

反面、見返りの期待ができない貧しい者、小さい者の存在には関心が持てず、無視致します。

そのようにこの世の損得を行動基準としている人は体と共に朽ちる世界でしか生きておらず、神と人とを愛する心をもった霊としての自己を育てていないことになります。

要するに最後の審判では生み出され生かされた人生の過程で、「お前は朽ちることのない自分を育ててきたのか」すなわち、人生を通じて作り上げた自らの実存が問われるのだと考えられます。