管理牧師 司祭 ヨナ 成 成鍾

「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ (マタイ7:17) 」

 私と連れ合いの朴司祭の間には、13歳の長男と今年の2月に授かった女の子がいます。生まれた子は「流」と書いて「ユウ」と言いますが、今回は、長男の名前を取り上げてお話を展開させて頂きます。私たちは彼のことを「ナム」と言いますが、韓国語のナムは日本で「木」のことを意味します。生まれる前、お母さんのお腹にいる時から、何か意味のある言葉を持って彼に話しかけたくて「ナム」と言い始めました。名前を呼ぶということは、可能性と希望のメッセージでもあるからです。
木にはいろいろな象徴的な意味があります。とりわけ、天と地を繋ぐという意味を挙げることができます。宗教学では、それを、宇宙木(cosmic tree)や世界木(world tree)と言いますが、古くからあった「世界軸(Axis Mundi)思想」の延長線上にあると考えられます。宇宙木は殆どの宗教伝統の中にもある象徴的なシンボルですが、日本の場合には神社にある鳥居、キリスト教においては十字架が代表的な例であります。また近年ではアバター(AVATAR)などのハリウッド映画や宮崎駿監督のアニメーションにも宇宙木のイメージは度々用いられています。基本的に宇宙木は、天と地、つまり神様と人々を繋いでくれる聖なるシンボルですが、さらにそれは命と安定、豊かさをもたらす象徴としても理解されてきました。産業化される以前までは、神様と共に生きていた人類において、こういう象徴は極めて普遍的で一般的なものでした。そういう理解を伝えている表現を探し出すことはそれほど難しいことではありません。例えば、ドイツの作家、ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)は、木を神聖視したケルト(Celtic)神話を復活させようとしたかのように、「木は聖なる召しの通路である。木と語り合い、その声に耳を傾ける人は真理について学べる」と語ったこともあります。
学問的にこういう理解があるとしても、こんなに膨大な意味に沿って我が子を「ナム」と言い始めたのではありません。ただ、象徴的に木が天と地を繋ぐように、神様と世界、また人と人の間を繋いで生きればいいな、という大きな夢を持つ親の願いがこもっているのです。そういった意味に準じて、本名も繋ぐという意味を持っている「繗(リン)」という単語を用いて「成繗」と名付け、また洗礼名は、人間を超えて何の隔たりもないキリスト者の生き方を示された聖フランシスの名前を借りて付けました。
もちろん人生の生き方は、親ではなく彼自身が選びます。しかし人生の実りは彼自身に問われる部分であり、それ以前に、人生や生き方が根を下ろしている根本にかかわる部分でもあります。“良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ”からです。それなら良い実を結ぶ良い木は、どのような木なのでしょうか。言うまでもなく、善い地に種がまかれ根を下ろした木なのです。韓国語で奥さんのことを「内の太陽」という意味で「アネ」と言いますが、アネと私はフランシス・成繗という名前を持っている「ナム」が神様という根本にちゃんと根を下ろし、善い実を結べる木になることを願っています。
キリストは木です。神様という宇宙の中心に根を下ろし、そのただ中に立っている命の木なのです。キリストは、神様と人間の間を繋ぐために立てられた十字架に掛けられ、ご自身の全てを神様に帰依(サンスクリット語で「南無(ナム)」という意味)し、救いという良い実を結びました。そういった意味で、世の中で一番美しい木なのです。キリスト者も同じです。キリスト者一人ひとりは、神様と人々を繋いで世界中のあらゆる隔たりをなくすためにこの世に送られた尊い木なのです。それゆえ、キリストに倣って神様に自分を帰依し、自分なき自分として生きていく時、私たちそれぞれは世界軸としての尊さを取り戻せるのです。私たちは、ナム・キリストです。
 

新牧師 成 成鍾先生に聞く[続]

前回は、成先生の学生時代、そして牧師として召命を受け、韓国で働かれた後、日本に来られるまでのお話をお聞きしました。成先生が熱心に取り組んでいらっしゃる「霊性修練」については、インタビューの後半でも話題になり、キリスト教の黙想と禅の関係、観想祈祷などについて成先生からお聞きすることができました。教会の将来に向けて、取り組まなければならない課題を考えるよい機会になったと思います。
A 修道院での祈りを体験したあと、お祈りの集いを作って、観想祈祷会を毎週持つようになりました。その延長線上で、神学校でも教えたり、実践したりして、今に至っています。それも自分に能力があったり、関心があったということよりは、導きだったと思います。神様は私を使うために、導いてくださったと思います。成り行きですね。

Q 仏教でいうと「縁」ということですね。自分の思いでいくのではなく、そのときそのときのコンテキストの中で、ということですね。
A 霊性学では、「積極的な受動」と言います。「受動」というのは消極的なものですが、「積極的な」受動を言いますね。
Q 私(Y)は座禅とキリスト教の黙想は黙って座るという点で一見似ているけれど、全く異なるものと理解しています。座禅の場合頭の中を無にして何も考えない。その時の脳波は平らになっている。これに対してキリスト教の黙想ではテーマを意識し、思いをめぐらして導きを聴こうとする。この時の脳波は活発に動いている。座禅の場合は座禅の間に何かの気づきを得るのではなく、座禅を終えて自分の思いやしがらみが除去された状態で物事を見ることによって、真実が見えるのではないかと思います。私の経験では座禅を終えて帰ってくると森羅万象が生き生きしているように感じられた。すぐ元に戻ってしまいましたが。
A 座禅にも「公案」というテーマを意識して座る形態があります。
Q 座禅とか、日本の仏教には興味はありますか。
A ありますけど。座禅とキリスト教の観想祈祷というのは、違いがないと思っています。キリスト教の伝統の中にも、座禅に近いものがたくさんあります。紹介されていないだけです。立教の佐藤研先生は「キリスト教座禅」という表現を使っているのですね。「座禅」というのは仏教だけのものではない。それはほとんどの宗教の中にある、ある一つの要素である。だから「キリスト教座禅」という表現を使っています。でも「キリスト教座禅」という言葉を使わなくても、キリスト教の伝統の中には昔から、特に初代教会の時代には、「レクティオ・ディヴィナ」とか、「観想祈祷」とか、を見ますと、座禅とそれほど変わらない要素があるんですね。佐藤先生の講演の時に、「わざわざ『キリスト教座禅』と言わなくてもよいではないか、キリスト教の伝統の中にもこういうものがあるのではないか」と質問したら、「あなたはあなたなりに頑張ってください、わたしはわたしなりに頑張ります」と言われました。ですので、わざわざそれを求めてお寺に、禅寺に行かなくても、教会の中で十分できることかな、と思います。
Q 先生は、京都のお寺、竜安寺とか石庭とか行かれますか。
A いくつか行ったことはありますが、詳しくは分からないので。
Q 春休みに生徒と京都奈良を一週間、寺を巡ってきました。京都のお寺、禅のお寺とか、石庭とか枯山水とか、来ている人を見ている、ずっと何時間も座っているんですよね。若い人もお年寄りも座っている。それがあらゆるところに見られて、それを見たときに、日本人にそういうものを求める心があるのかな、と今回すごく思ったんですね。もし先生がそういうプログラムとかをされると、求める気持ちが人の中にあるのではと思います。
A そうですね。実際にそういうことを求めている方々は教会の中にたくさんいらっしゃるのでは、と感じています。聖救主教会で月に二回、夜金曜日に観想祈祷会をやっていますし、また一緒に祈る共同体のメンバーたちがいますので、月に一回修道院を借りて、一泊で行うのですけれど、観想祈祷会に関心を持っている方は結構いらっしゃいますね。それをどういうふうに、自分の関心を具体化してゆくか、それを補ってゆくかについて、分からないだけで、関心を持っていらっしゃる方はたくさんいらっしゃいます。そしてもう一つは、聖職者の中にそういうことについての体験のある方がそれほど多くないんじゃないかという気がします。恐らく「霊性修練」について学んだり、体験する機会が少なかったと思います。先ほども触れましたけれど、聖職は、絶えずキリストを迎え入れて、キリストの恵みがあふれるようにしなければなりません。それは尽きるもの、薄くなっていくものですから、それがなくなってしまうと、信仰ではなく信念を伝えるようになってしまいます。非常に陥りやすい落とし穴です。人間ですので、いただいた恵みはだんだん薄くなっていきます。甕から水を使うとだんだん少なくなっていくのと同じように、尽きてゆくのですね。するとそれを補うようにしないといけませんし、補って分け与えることが牧会だと思うのです。分け与えることが宣教だと思いますし、そういう意味では聖職は絶えず祈ることはもちろんですけれど、定期的にリトリートする必要があります。働きの一環としてリトリートをすることが大切だと思います。神のために働くのではなく、神の働きをしなければならない。自分を通して神が働くようにしなければなりません。
Q 黙想、特に「観想祈祷」は、私たちの中でも体験した人は少ないと思います。成先生のお説教を聞くようになってから、ミカエルでも黙想会に行きたいという声を聞くようになりましたが、先生のおっしゃる「霊性」を学ぶ機会がこれまではなかったと思います。
A そうですね。乏しいではありますね。だから、私のようなものが今用いられていると思うんです。あまりふさわしくない者だと思うのですけれど。それほど日本の中にはそういう部分に関しては乏しいということかなと。聖公会がですね。
Q そこから、活路が、希望が見えてくるような感じがしますね。
A そうですね。そういうふうに私も感じていますね。教会は人の集まりですので、人がどういうふうに求めているのか、どういう方向性を定めているのかが一番力強いことかなと思うんですね。教区があって、教区が組織的にやってくれることも大事なことであって、それも力になると思うのですけれども、それ以前に信徒一人一人が何を求めているのか、それより大きな力はないかと思います。
Q まだまだ聞きたいことはありますね。興味は尽きないですが、今回はここまでにしたいと思います。ありがとうございました。

(ルシア 布川悦子記)

聖ミカエル教会の新オルガン

聖霊降臨後第15主日の9月1日、聖ミカエル教会に新オルガンが奉献され、成司祭のお祈りにより聖別されました。

 聖別の祈り

 全世界の創造主である愛の神様、あなたは天地万物をお造りになった時、全てのものを祝福し「よし」とされました。また、あなたを愛する者には、全てが益となるように、計らって下さいます。今私たちは、あなたへの讃美とみ栄えのために、新しいオルガンを捧げます。み名を通してこのオルガンを祝福してください。どうか、オルガン奏楽とともに礼拝する私たちが、主の救いの御業に結ばれて、神様の命に生かされますようにお導きください。
また、オルガンの奏楽をし、神様を崇めるために演奏する人々をも祝福してください。彼らが心をこめて作り出す音色とハーモニーを通して、私たちがより御心に深まり、神様との交わりを広めることによって、教会とこの世のハーモニーが一層美しくなりますようにお導きください。
どうか私たちが、このオルガンを捧げた人々の感謝の心を憶え、口と心と生活を通して主を讃美しながら、共にキリストの愛を証することができますように、私たちの主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
このオルガンは電子オルガンですが、本物のパイプオルガンのような深い音色を持ち、礼拝堂に荘厳な音響を豊かに響かせてくれます。キャビネットも美しく、バロック時代のオルガンを再現した形で、木製の鍵盤やストップも丁寧に手作業で仕上げられ、深い彫り込みの入ったデザインは、礼拝堂に良く調和しています。
このオルガンの誕生を振り返りますと、オルガン音楽の父バッハを生み出したドイツのメーカーにより開発された電子オルガンがその基であり、2009年秋に現地ドイツ人社長の引退に伴い仝面的な技術移管を受け、日本オルガン株式会社がオリジナルブランドとして再登場させました。いわば、本場ドイツの高音質をMade in Japanの電子技術で再現させた傑作といえるものです。
黒檀を使用した手鍵盤は2段あり、木製鍵盤でしか得られない繊細なタッチで演奏することができます。鍵盤の両脇にある音色を選択する木製のストップは、第一鍵盤に8個、第二鍵盤に9個あり、どっしり充実した笛の響きや、リコーダー(縦笛)の柔らかな音色や、トランペットのような高らかな響きなど様々な音色を出すことができます。足鍵盤にも6個のストップがあり、低く充実した響きやファゴットの響き、やさしい軽やかな高音の響きまで出すことができます。このほかに第一鍵盤と第二鍵盤を連結させたり、足鍵盤と手鍵盤を連結させて演奏するストップを備えており、より力強い音色の演奏が可能となっています。
この新オルガンを用いて皆様とともに、力強く神様を賛美する礼拝を捧げていきたいと思っております。

(セシリア 河野マリ子記)

城南グループ「聖歌フェスティバル」のお知らせ

城南グループ(聖アンデレ教会、聖オルバン教会、三光教会、真光教会、東京聖マリア教会、大森聖アグネス教会、聖パウロ教会、渋谷聖ミカエル教会の8教会)では、11月17日午後3時から聖アンデレ教会において、2007年以来、6年ぶりに「聖歌フェスティバル」を開催することにしています。これはグループの全ての教会が一堂に集まり、聖歌を歌うことを通して主を賛美し、交わりを深めることを目的にしています。
今回は、東日本大震災の被災者をおぼえ、テーマは 『 ~ともに希望のひかりを~ 』
聖歌を歌うことと合わせて、聖歌につけられた詩を味わうこと、詩篇を唱えることそして歌うことから、希望のひかりへの小さな一歩をともにふみ出せることを祈りたいと思います。多くの皆さまの参加をお願いします。

(ヨハネ 守山 勁一記)

2013年教区フェスティバルを終えて

9月23日(月)の祝日に、東京教区のフェスティバルが香蘭女学校で開催された。
今年は東京教区成立90周年にあたり、 今回のテーマは「心を高くあげよ」という事で、10年後の100周年に向けて共に歩んでゆこう、というものである。当日は初秋らしい、爽やかな天候に恵まれ約1000人が参加をした。
10:30からの礼拝後、何十年か振りで参加者全員の集合写真撮影が校庭で行われ、その様は圧巻であった。午後からは、それぞれの教会がイベントに向けて奮闘していた。我がミカエル教会は、「えびす亭」と命名しホットドッグを150個と飲み物の屋台を出店。
ホットドッグの販売はまったく未知数で、はたして用意した150食をすべて売り切れるか? また、当日他教会でもホットドッグを販売すると判明し、競合しないだろうか? という懸念もあったが、中学生、30~40代の信徒が中心となって準備・当日の役割を一生懸命担って頂いたおかけで、予想に反し、販売開始直後から「えびす亭」のホットドッグを買い求める人が列をなし、イベント終了までに無事完売となった。
その後15:00から、チャペルで夕の礼拝をし、解散となった。
今回のイベントを無事終えることができ、あらためて皆様に感謝の意を表したい。

(フランシス 大野直人記)

ヒルダ・ミッシェル信徒講座

前回の「ひろば」でボランティア活動に関心のある若者を対象とした【フィールド学習講座】のご提案をさせて頂きましたが、この内容は、当教会に講師を務める専門家がいないこと、受講生の募集が難しいとの問題指摘があり、講座内容を変更することにいたしました。
準備委員会では、主イエスのご生涯から、人の生き方を学ぼうと、テーマは「キリストから学ぶ『人の生き方』」とし、「信仰」・「聖書」・「霊性」の観点から私たちの日常生活を見つめなおす内容の講座を予定しています。
11月から来年3月までを第1期とする10回シリーズは、「人は何故働くのか?(労働・職業)」、「人との係わり(友情・愛・人間関係)」、「一人になるとき(孤独・誘惑)」について、3回ずつ、信仰者の立場からの問題指摘を山田益男が、聖書の観点から布川悦子姉が、霊性の観点から成成鍾先生が担当して実施することになりました。最後に「ケネス・リーチ著の『魂の同伴者』の紹介」の特別講座を関正勝先生にお願いすることが準備されています。
月2回木曜日の夜7時から9時まで、10回シリーズですが、1回毎の参加も可とし、信徒も求道者も参加できるものとしていますので、皆様ぜひご参加ください。資料代を頂くことがあるかもしれませんが、受講料は無料です。

(パトリック 山田益男記)

◆ミカエル教会への転籍者

 7月以降、ミカエル教会にたくさん兄弟姉妹が加わりました。HP上ではお名前は割愛させていただきます。

◆聖堂の模様替え

 9月第3主日(教会清掃の日)に、聖堂の模様替えをしました。成先生のお考えにそって動かしてゆきましたが、聖堂に新しい風が入ったように感じます。当日、作業を手伝ってくださった皆さん、ありがとうございました。いくつかの変更がありますので、お知らせいたします。

・古い聖卓を左翼の窓下に移動しました。一人で静かにお祈りをするためのスペースです。
・洗礼盤を聖堂入口右に移動しました。洗礼盤には聖水が満たされていますので、洗礼を思い起こし、指先を聖水に浸して、十字を切ってお入りください。
・受付のテーブルは聖堂入口左にあります。アッシャー席も変わりましたので、ご注意ください。信徒の方はご自分で、式文、聖歌集、聖書日課、週報をお持ちください。
・親子で礼拝にあずかるために、右側最後列に対面の会衆席を設けました。

◆12月合同堅信式

 12月の合同堅信式を目指して、3名の若者が堅信準備を進めています。豊かな学びの時を過ごし、堅信の喜びを受けることができますように、お祈りください。

◆10月-12月前半の予定

11月17日(日)

聖アンデレ教会

城南グループ 「聖歌フェスティバル」

午後3時より

12月15日(日)

聖アンデレ教会

教区合同堅信式

午後3時より