第60話 キリスト教の救いは他力本願の仏教とよく似ている?

2017年9月3日

日本人に宗教の話をする場合、仏教を避けて話をすることができません。私は仏教についての理解は浅いので、十分な説明はできませんが、僧侶などの講話をお聞きしますと納得できることが多くあります。昔、葬式仏教としか見えなかったときには、仏教に対しては宗教としての信頼感が低かったのですが、僧侶のお話を伺う中で人が自分を超える絶対的存在(神/仏)に向き合って熱心(必死)に問い求める時、その絶対的存在はきちんと答えてくださるものなのだということを実感しました。ですから、真剣に祈り絶対的存在による導きを求めてきたまじめな宗教はそれぞれに宗教的真理を伝えていると思っています。

さて、仏教では人が救いに至る道筋は他力本願であると説明する宗派(浄土門)と自力本願であると説明する宗派(聖道門)があるされ、阿弥陀仏に帰依して念仏を唱えることにより、浄土へ行けるという浄土教は他力本願、そして、座禅を組んで、悟りに至ることを重要視している禅宗は自力本願と一般に理解されています。開祖であるお釈迦様が教えられた仏教(小乗仏教)は、この世的価値への執着と欲望を思う煩悩を脱却して「やすらぎの境地」に至ることこそが悟りなのだと宣言します。悟らなければ仏にはなれないわけですからそもそも仏教は個人の悟りということが重要視されるということになるようです。小乗仏教は絶対的存在である仏と人とのパーソナルな関係が意識されることはなく、知的に理解を深めていくアプローチを取り、宗教というより哲学的な要素が強いように私には思えます。

中国を経由して入ってきた日本の仏教は大乗仏教だと言われますが、その大乗仏教を簡単に説明すれば、修行者(僧侶)が仏教の精神を広く説くことにより、人々が修行せずとも仏教を信仰することは可能だと説くものです。その成立時期は、インドにおいて紀元100年頃に『無量寿経』と『阿弥陀経』が編纂されたのを契機としているようで、それが中国を経て日本に伝来したそうです。

日本の仏教は聖道門と浄土門に分かれ、前者には天台宗、真言宗、禅宗(曹洞宗・臨済宗など)が、後者には浄土宗・浄土真宗・時宗などが分類されている。末法という荒廃した時代の到来を自覚し、それをおそれることで生まれた死生観やもろもろの観念を「末法思想」と呼んでいますが、鎌倉時代に衆生が修行によって悟りを開き成仏することが困難な民衆にむかって平等の救済を説く鎌倉仏教が登場しました。浄土宗の開祖法然は、人の救いには難しい教義を知ることも、苦しい修行も、造寺・造塔・造仏も必要ない。ただひたすらに「南無阿弥陀仏」を唱えることが大切だと説いています。念仏を唱えれば阿弥陀仏の慈悲の心によってその人は極楽浄土に迎えられ、そこで仏となることが許される(弥陀の本願)ということのようです。南無とは「身命を捧げて服従し、おすがりします。」という意味とのことですから、「南無阿弥陀仏」とは己を捨てて阿弥陀仏に帰依しますと宣言することといえます。浄土門では阿弥陀仏を拝むことを「正行」とするも、「雑行」といって他の諸仏を拝むことも勧めており、また、念仏をとなえる「正定業」のほか、礼拝・読誦・観察・讃歌・供養などの「助業」も勧めています。要するに、念仏を唱え、阿弥陀仏に帰依する信仰が基本であるが、その信仰を持つためには、「助業」も必要であるということかと解されます。

カトリックの井上洋二神父様はキリスト者の信仰は「南無アッバ(父なる神様)」、要するに「己を無にして父なる神様の導きに従って生きる」ことなのだと解説されました。己を無にするとは自分の価値観(この世的な価値観)ではなく、神様の導きに従って生きるということですから、なるほど「南無アッバ」とはうまい表現だと感じ入ります。そして、人が神様を心から信頼して自らの全身全霊をお預けし、導きを正しく受け止め、その下でしっかりと生きるためには、神様のみ言葉(メッセージ)が書かれた聖書を読み、礼拝して祈りの内に御心を聴き、聖餐に与る(キリストの聖なる体と血を食する)ことが重要であると教会は勧めます。このようにキリスト教の信仰は「正定業」のほか「助業」を奨める浄土門の信仰に実によく対応し、類似していると思います。ここでキリスト教の特異点を拾ってみますと、人が自らの努力(預言者の言葉を聞き、律法を守ること)によって神の前に正しいものとなることが不可能であることを見極められたアッバ(天の父なる神)は、慈愛の心をもって自らの分身としてイエス様を、肉体を纏った人間としてこの世に遣わされ(受肉)、福音を人類に直接伝えられると共に、人の罪の贖いとして十字架に神の小羊として犠牲を払い、その上で、肉体の死は全ての終わりではないことを教示するために復活のみ姿を顕されたということになるでしょうか。この様に、神様の御心、宗教的な救済の真理のメッセージを人の目(五感)に見える形(サクラメントとして)で示された点にキリスト教の大きな特徴点があると思います。

 

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