人は不完全ながらも神の形に作られており、感性によって自ら感じ取り、理性をもって自ら考え、自由意志を用いて自らの行動を決定して生活しています。デカルトは「われ思う。故にわれあり」といって、この世で確かな存在を確認することは不可能と思えるが、存在の有無を確認しようとする自分が存在していることだけは確かな事実であるとして、存在の確かさの根拠を自分がものを考えるという点に置きました。確かに、人は自分の意思を捨て他者の指示のままに行動することになれば、もはやその人は自分を放棄し他者の操り人形となってしまいます。しかし、実際に神様は人をご自分の操り人形には作られませんでした。人は不完全性を持ったものですが、知性、感性そして自由意志が与えられ、善悪や好みを自ら考え、感情をも踏まえて自らの行動を決める存在として作られています。
しかし、主イエスは弟子と群衆に向かって言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。(マタイ福音書8-34,35)」と。
主イエスは私に従いたいと思う者は「自分を捨てて自分の十字架を背負ってついてきなさい」と促されています。この「自分を捨てて」とはどういうことでしょうか。自分をすべて捨ててしまっては自分自身を喪失してしまうではないかという素朴な疑問が生じます。しかし、主イエスは、そうして自分の十字架を背負って私に従えば、この世の命を失うことがあっても本質的な命、永遠の命を得ることができると言われます。ということは、自分をすべて捨てなさいと言われているのではなく、自分の何かを捨てなさいと言われていると解されます。捨てるべき自分とは本質的な命を見失わせるまやかしの命への執着心でありましょう。この世の宝に執着する私欲にしがみついていては、大事なものを見失うことになる。要するに、この世の宝へ執着心(私欲)を捨てられなければ朽ちる世界に留まり永遠の命を得ることはできないということと考えられます。捨てるべきものとは具体的にはこの世を渡っていく上で益となる、富とか、名誉とか、さらには快楽を追求する己の私欲のことであり、主イエスのため、また福音のために命を失う者とは、自分の利益ではなく、自分の十字架を背負う者、すなわち御国建設のため主イエスが世の終わりまで続けられる宣教の業に参与する者を指していると言えると存じます。
主の導きの下に歩むキリスト者を神の僕(しもべ)と言います。「僕(しもべ)」は主人の指示通りに動くことを求められ、僕は一般に主体性を持ちません。人間である主人の指示は言葉等によって僕の五感に直接示されますので、僕は指示通りに動くことが求められ、主体性を持ちません。しかし、神様の指示(導き)は人の感性を通して示されます。人は自らの感性を通して神様の導きを感じ取り、与えられた理性と良心を用いてそれが正しい神様の導きであるかを確認した上で、自由意志によってそれを行う決断をして行動します。このように神の僕は主体的に神様の導きに従う生き方であり、決して自己を喪失した生き方をするものではないといえるかと存じます。
ここで小僧の70点解説をすれば、自分を捨てるとは自我、エゴ、自分の名誉、損得の思いをより大事なもののために捨てることであって、しかもそれを導きの内に主体的に捨てることだといえると存じます。