現代の日本人が人生において確かなこととして共通理解できる事柄を列挙してみれば、人は母の胎から生まれ、その寿命には差があるものの、いずれは死の時を迎えこの世から消えてゆく存在であること、また、人はといえば、その数は古今東西、無数と思えるほどの人が生きてきたが、同じ存在というものは決してなく、皆個性を備えており同じ存在は二つとないことも紛れのない事実として認識できます。また、人は自らの意志で生まれてきた者ではなく、自死は別として死ぬ時も自らの意志によるものではない事故や病気そして寿命というものが尽きて死んでゆくことは皆理解しています。そして、物心がついたときには、我なる存在は、既に家族といった人の集合体(社会)の一員としてこの世に存在しており、置かれた環境の中で状況を判断し、自らの意志をもって行動している存在であると認識されています。
人なる存在を簡単に解析してみれば、人はそれぞれに体と共に感覚と知性が備えられており、出来事を通して各自が感じたり考えたりします。また、その思考の結果として自らの次なる行動をとるように作られているように理解されます。感覚には五感の他に感性というものがあり、前者の五感とは視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚のことで、目、耳、鼻、舌、皮膚がセンサー機能を持っていて、時間と空間の領域で起こる現象を検知し、周りの状況を把握します。同じ状況下にあれば、人はこの五感を通してあまり個人差のない認識を示すように見受けられます。因みに、強烈な光を浴びれば誰しもまぶしいと感じ、高温の状況下では皆暑いと感じ、喧騒下では皆うるさいと感じるといった具合です。これに対し、後者の感性はその機能を異にしており、同じ経験をしても、そのことへの感じ方は個人差が大きく出るようです。何かを感じ取る人もいれば、何も感じ取れない人もおり、感じた人であっても感じ方には強弱があり、弱ければそのことをすぐに忘れてしまうといった具合です。五感については個人差が少ないけれど、感性は個人差が大きい。神のご意思によってそのように作られていると考えるかどうかは別として、人はそのような属性を備えているということは多くの人が認めるところかと存じます。
信仰を持たない人々へのメッセージの発信はこのような人間としての属性を認識した上で、伝えるべき相手が何を大事なものと認識して生きているかを把握し、そこを出発点として行う必要があるのではないかと存じます。
2019年6月30日