神様は物質的な存在ではなく、霊的な存在でありますから普段は人の目には見えませんし、他の五感によっても直接検知ができません。感性でしか感じ取ることができない存在であると言えます。ですから、現代人に限らず、人は確かなもの、目に見えるなど五感で感じ取り確認できるものに信を置き、重要視してきたのですが、近世になると自然科学の発展が目覚ましく、この世の現象については理路整然とした解明がなされてきたため、ますますその信頼度が高まり、不確実性を伴う感性の世界については信頼の比重がより小さくなってきているように見うけられます。そして、人は日々の生活に追われ、意識をもって立ち止まることをせずに流されている現代社会の中では、感性を働かせ神様の存在に気付くことがなかなか難しくなっているように思えます。
マルクスは「宗教はアヘンである」と言ったと言われています。感覚を麻痺させて夢遊状態にして苦しみを忘れさせる効果があるアヘンは、苦しみから解放させてくれる宗教と現象的に類似し、人を現実から逃避させる危険物だということでしょうか。彼の真意を十分理解しているわけではありませんが、少なくとも常用すると中毒症状を引き起こさせ人を廃人に至らせるアヘンと同じとは言えないと私は考えます。
また、現代ではイスラム原理主義者たちが狂信状態になってテロ行為を実行したり、怪しげな宗教団体が家族を引き離し、反社会的行為が宗教の名によって行われている現象を見せつけられる中で、宗教への信頼が落としめられている現象が起きていることも否定できません。
ところで、平常生活の中では神様を感じたことも、考えたことも無いという現代人であっても、非常事態に遭遇するといった何らかの機会に神様を感じたり、神様について考え始める人は少なくないようです。実際に、東日本大震災に遭遇し九死に一生を得た方々の口から、あの時、自分に対する神様の力を感じたという体験談を数多く聞かされました。旧約聖書の記述によれば、人は神の形に造られた存在とされています。旧約聖書が言う「神の形」とは神様が我々と同じ二足歩行の両手使いで、人間のような目鼻立ちの姿・形をしているという意味では勿論ありません。「神のかたち:Imago Dei」は、エリクソンという神学者によるまとめでは歴史的に3通りに解釈されてきたようですが、その内一番オーソドックスで伝統的な解釈とされているものは実体的見解といわれるもので、「神の性質を分け与えられ、知性と感情、意志をもつ存在であること。」とされています。これについて私なりの70点解説を致しますと、「神の形」とは一言で言えば「神の心を知ることのできる者」、すなわち、善悪を考え、他者を愛する心、美しいものを美しい、悲しいことを悲しいと感じる感性を持ち、自らの行動を決める自由意志、そして工夫をしてものを作る能力が備えられた霊なる存在といえるように思います。ただし、人にはものを作る能力が与えられているといっても自然法則を利用した範囲のもので、神様のように無から有を造る能力は備えられておりません。人間は突然変異と進化の過程で偶然生じた存在であると考える現代人は少なくないようですが、人間の有り様を直視しますと偶然の産物と考えるより、神によって造られた存在と考えるほうが自然のように思えます。そして、クリスチャンは「私たち人間は神様によって作られた被造物であり、神様の下に存在が認められたものである」と信じているわけです。そして、人間が他の動物とどこが異なるかといえばこの「神の心を知ることのできる者」として造られている点ではないかと私は思っています。