今の教会が主イエスの宣教命令、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ福音書第28章)を真摯に受け止め、御指示を実行しようと思うとき、今の教会に属する者達はすべての民をクリスチャンにするなんて非現実的状況にあることを認めざるを得ないでしょう。クリスチャン人口が1%に満たない日本社会において、主を知らない人々(外の羊)は私たちの周りに大勢いますが、その方々に神様の愛を知らせ、主の家族に招くことは容易なことではありません。神様の愛を必要とは思っていない人たち、罪を赦していただくことを求めていない人たちに「神様は私たち人間を滅びから救われるため、真理と道を伝えるために御子を使わし、その御子に十字架で苦難の死を与え、人間の罪を贖ってくださったのです。」と神様の人間に対する愛を直接語ってもなかなか通じるものではありません。教会の発する福音メッセージは彼らには空しく聞こえてしまいます。そして、「罪を許され神様の導きのもとに歩み始めた人はこの世の死をもって消滅するものではないことを、復活のみ姿を現されたことを通して明示してくださったのです。」とキリスト教の核心を直に語ろうものなら、それこそ、死んだ人が生き返るなんて、そのような子供だましの話を誰が信じられるかと、あきれ顔をされてしまいます。このような現象はキリスト教が根付いていない日本の教会ばかりではなく、いわゆる歴史的にキリスト教国といわれる欧米の教会においても若者たちに共通する現象のように見受けられます。
日本のように豊かで安定した人間社会に生きる人は、その秩序を乱すことなく、人並みの社会活動に参加していれば、平穏無事な生活を送ることができるようになりました。この世の生活が安定し、衣食住がそれなりに満たされた状態の中にあって、人はその状況下に安住するようになっているのです。その中で、より豊かな生活を得るために働くことに夢中になって、走り続けるようになりました。足を止め感性を働かせて自分の有様を考えることをせず、五感で感じ取れる物理的に確かなものに信頼の基準を置いて膨大な情報を取捨選択して行動するようになっています。人がいずれ迎えることになるこの世との別れ、死の時が来ることは望むところではなく、いささか不安ではあるけれど、それは生物としての宿命であるから受容せざるを得ないという割り切った考えが浸透しているようです。この様な人生観をもって生きている現代人には、今の教会が行っている古典的な宣教手法は福音メッセージが届かないばかりか、むしろ真意が通じない教会用語を用いて人を躓かせているとさえいえるのではないでしょうか。
教会に集う私たちは決して自分達だけの閉鎖社会を作っているわけではなく、教会のドアーを開いて、私達はどなたをも歓迎しますという姿勢をもっているつもりですが、関心のない人はどうぞといわれても教会に入る気もおこらないでしょう。たとえこの世の生活の中で問題を感じ、教会に救いを求めてドアーを開いて入ってきた人であっても、そこでなされている礼拝に参加して何を感じ取れるでしょうか。礼拝の中で唱えられている「聖なる公会、聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、限りなき命を信じます。」という信仰箇条や、説教で語られる主イエスの受肉、贖罪、復活などの教会用語の内容は全く理解できず、自分の悩みや抱える問題とは縁遠い事柄としか聞こえないのではないでしょうか。
要するに、教会が今発信している福音メッセージの内容表現と主を知らない現代人の関心事との間には、大きな乖離があることを私達は認識する必要があると存じます。福音の内容が陳腐といっているのではありません。そのパッケージが時代離れとなっているというか、表現方法が現代人の心に届かないものとなっているというべきでしょう。他者にメッセージを伝えるにはその人の価値観などの考え、その人の立ち位置を理解し、そこをベースにして発信しなければ受け止めてもらえず、メッセージがその人に届くはずがありません。宣教師たちから伝授された欧米型の宣教法は日本社会に馴染まなかった上に、21世紀に生きる若者の価値観とはかみ合わないという現実を直視しなければならないと存じます。そもそも主に導かれる人は少なく、少数派でしかないことは歴史的に見て明らかであるから、仕方のないことだという方がよくおられますが、その考えは如何なものでしょうか。そのような関心のない人や話しても解らない人は相手にしないという切り捨て御免の考えは「わたしを遣わされた方のみ心は、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。」ヨハネ福音書6-39 との御心にはそぐわないというべきかと存じます。すべての民を私の弟子にしなさいと言われる主は、現代人の関心事と教会の語る福音メッセージの内容表現との間にある大きな乖離をどのようにして縮め、現代人の心に届くようにするための宣教手法の開発に本気で取り組むようにと、今私たちに求めておられるのではないでしょうか。
外の羊と日々接しているのは聖職者ではなく我々信徒であり、彼らの価値観や発想については聖職者より我々信徒の方がよく知っているはずです。とすれば彼らを教会の門まで連れてくるのは信徒の役割ではないでしょうか。その任を担うためには信徒が自分の信仰を自分の言葉で彼らに発信すること、彼らの価値観を理解しながらも私たちは信仰をもって歩む道を選んでいる事実を彼らに伝えることが必要となります。そのためには我々信徒が自分の信仰をもう一度見つめなおし、整理する必要があるように思います。信徒が教会の門までつれてきた外の羊の教育は聖職者に委ねるという、聖職と信徒のチームミニストリを整える必要があるように思われます。