この世における今の生活に満足し、神様への関心など全くない方たちへのアプローチ、彼らと教会が向き合う場の設定や、現代人の心に届く宣教方法の開発は大変難しい事柄で一朝一夕にできるものではなく、今後全教会的に取り組み、研究と協議を重ねてゆかねばならないことだと存じます。彼らの心に届く宣教方法の開発は大変難しい事柄であり、現場の教会で今すぐに対応することは困難であるとしても、我々信徒が何もしないでよいかといえば、それは御心に沿わないといえるでしょう。今こそ聖職依存体質を改め、聖職と信徒によるチームミニストリを整えなければならないと存じます。

そこで、教会に何かを求めて訪問される方々への対応が適切になされているか検討してみたいと存じます。全教会的な働きに結びつけることが難しくとも、心ある信徒はこの問題を認識し、解決の方向性だけは見据えるとともに、自分達信徒にもできることはするという姿勢だけはもっておきたいものであります。自立した人間は神になど頼らず自らの責任で対処すべきものと考え、自信をもって日常生活を送っている現代人たちに対して、本当にそうでしょうか、人は一人で生きていける確かな存在なのでしょうかと、少なくとも、人間の危うさを問題提起することはできるのではないでしょうか。第1部の第5話でも申し上げましたように神様は人それぞれを自ら感じ取り、考え、自由意志をもって行動を決める存在として作られていますから、その人の生き方を他人が指図すべきではありませんが、人は自らの責任で自らの力だけで人生を全うすることができないものであること、神様の愛と主にある交わりの中で生かされるものであることを知らされた私たち信徒は、自分たちが信ずるところを人々に伝えることが大事なのではないかと存じます。

 

初めて教会を訪れる方の多くは主日礼拝に見えますが、礼拝が求道者の受け入れに最適な場とは必ずしも思えません。各教会ではその方々にどのような対応をされているでしょうか。教会を訪ねてこられる方は、少なくとも教会に関心を持ち、何かを期待されて見えたはずです。私たちはその気持ちを受け止め、適切に対応しているでしょうか。私どもの教会では訪問者に新来者カードを用意しており、礼拝案内の人が傍に座ることを希望するか否か、牧師と面談を希望するか、皆さんに紹介してよいかなどの内容を書いていただいています。一度見学がしたかっただけで、そっとしておいてほしいという方も日本人には少なくありませんので、新来者カードからその方との適当な距離を判断して対応し、牧師等との面談を希望される方にはその旨を牧師に伝え対応を依頼するようにしています。礼拝が終わると、食事やお茶にどうぞと誘いますが、すぐに応じて参加される人は少なく、ではまた、どうぞいらしてくださいということで送り出しています。多くの教会でも同様ではないでしょうか。しかし、わざわざ教会へ見えたということは教会に何かを求めて見えたと考えるべきでしょう。また礼拝にどうぞというだけでは、親切な対応とは言えないように思えます。まず、教会が早急に取り組まなければならない教会の宣教姿勢は、悩みや問題をかかえて教会へ救いを求めてきた求道者の方々への対応を工夫することではないかと存じます。

主日礼拝は聖餐式がなされる場合が多く、一般に一時間半ほどの礼拝になりますが、初めての方には長すぎて負担が多いといえるように思います。また、内容からすると、ニケヤ信経や説教で使われる教会用語がよく理解できず、自分の抱える問題とは結び付かず、縁遠いにように感じてしまう方が多いのではないしょうか。荘厳な雰囲気などは感じ取ることができたとしても、未消化感が残るのではないかと懸念されます。求道者の期待に応えられる場の設定、例えば気軽にお茶を飲みながら会話が出来る求道者茶話会などの場を準備し、誘うこともよいのではないでしょうか。礼拝で感じられたことをお聞きしたり、キリスト教Q&Aや礼拝の解説パンフレットなどを準備し、押しつけは避けるべきですが希望があれば簡単な勉強会に誘うのもよいと思います。ただし、その解説はできるだけ教会用語を避け、誰にもわかる平易な言葉とする必要があるでしょう。