復活の主イエスが弟子たちに命じた宣教は、マタイ福音書28章19節以下に「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに、父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」であり、続いて、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と記されています。教会は子なる神キリストが私達人間社会に残してくださった言葉と行いによるメッセージを伝承し、聖霊なる神の導きのものとにその意義を学びながら今日まで生かされてきました。

 

キリスト教会はその宣教命令に従って、2000年に渡り全世界に向かって宣教活動をしてきたわけです。キリスト教の名は今では世界的に知られていますが、その福音が必ずしも人々の間に知れ渡っているとは言えません。私たちの日本においては正にそういう状況であるといえます。

「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言われています。その洗礼とはクリスチャンになる入信儀式ととらえられていますが、水で罪を洗って清い人間になるというのではなく、古い自分に死んでイエス・キリストに結ばれた新しい人間に生まれ変わることを意味する儀式だと理解するのが正しいと思います。今の私たちの日本聖公会やローマカトリック教会では、頭から額に水を流しその水で額に十字架の印を書くだけの簡素化された形となっていますが、洗礼者ヨハネがヨルダン川で行った当初の洗礼は全身を水中に浸すという形態でした。これは全身を水中に沈めて古い自分に死ぬことを表現するものでした。プロテスタント教会の一部では今日でもこの形式を踏襲している教派があります。

古い自分に死ぬというのは、度々申し上げてきました自分の価値観を基準とした生き方を止めること、すなわち、自分の努力で得たと思い込んでいる知識・能力や社会的権力をふりまわして、自我を通す生き方を止めることであり、イエス・キリストに結ばれた新しい生き方とは、自分の不完全さを自覚して赦しを頂き、神様の導きと助けを頂きながら、主イエスの教えられた神と人とを愛する生き方を選んだことを意味します。これが洗礼という悔い改めと赦しの儀式なのです。

 

主イエスは「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と弟子たちに伝道する使命を与えていますが、主イエスの言われた守るべきこととは、第7話でお話ししましたように、「あなたの神である主を愛しなさい。」と「隣人を自分のように愛しなさい。」この二つに集約されます。この掟が守られるなら、人は神様のみ心に叶う生き方ができるということを主イエスは教示してくださったのです。しかし、人が神と人とを愛する生き方をしようと決心しても、自我を捨てそれを常に行うことは容易にできることではありません。すべての民に教えなさいと命じられた弟子(キリスト者)たち自身、自らの力でそれをすることは不可能であります。その足らざるところを補うために、主イエスの十字架の犠牲が必要であったのです。弟子に求められる生き方は第52話でお話しましたように、自我を捨てて、神と人とを愛する心をもって神様に聴き従って生きるという信仰です。そのような生き方を心がけるとき、不完全であるにもかかわらず、キリストの体に連ねられ、神様の助けによって人は肉体から成る生物学的存在を越え神の形に似た霊なる存在に成長させていただけることを人々に伝えることが教会の宣教の本質ではないかと考えるものです。