「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ福音書5:13~16)
これは、イエス様が人里離れた山の上で弟子達に語った教え、「山上の説教」として福音記者マタイは伝えています。語った相手は弟子達とありますから、イエス様は神様の導きに従って歩もうとする者への心構えをこの言葉で示されたと解されます。あなた方は社会に味を付けなさい。あなた方は光となって世の中を照らしなさい。といわれても、はたしてわれわれ人間は味を出す素や、世を照らす光の源など持ち合わせているのだろうかという素朴な疑問が起こります。自己研鑽に務め、豊かな心を育て、円熟した心で人々と接することによりあなた方の味を出しなさい。沢山勉強し、一生懸命に研鑽を積み、豊富な知識と力を備えた聡明な人間となって世の闇を解明しなさいと弟子達を叱咤激励されたのでしょうか。どうもそうではないと思われます。そもそも、イエス様の弟子達は律法学者やファリサイ派の人たちのような知識人ではなく、多くは無学で素朴な漁師達でした。無学ではあっても純真であることに可能性を認めて弟子とされた彼らに向かってイエス様がしっかり勉強し、尊敬される立派な人間となってリーダーシップを発揮しなさいなどと言われるはずはないのです。上記の心構えとはむしろ個人プレーで自分の色や味を出そうとするのではなく、ただ神様の導きに従って働き人として素直に行動しなさい。それはあなた達のような自尊心をもたない素朴な人間にこそできることです。与えられた自分の賜物を用いて自然に振る舞うことが神様の愛を周りの人に伝え、社会の闇を照らすことになるのです。あなた達は光の子としてすでに神様の光源につながれ、光を分かち与えられているのだから、自分で味を出そうとか光輝こうなどと頑張る必要はないのであって、ただ、恥ずかしがったり、面倒くさがったり、臆したりしないで、導かれる通り素直に行動しなさいといわれているのだと思います。
ですから、「あなたがたの立派な行いを見て、」あなた方は立派だとの人々からの評価を得るのではなく、「あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」ということになるのだと思います。自分たちが出す味も周囲を照らす光も自分の中から出て放たれるのではなく、それらの根源は神様の導きの中にあるということをしっかりと心に留めておくことが重要でしょう。
私達の教会(聖公会)が古くから用いてきたお祈りをご紹介しましょう。
「神よ、私達はあなたの導きによらなければ何一つ良いことをすることができません。どうか聖霊によって私達の心を収め、常に導いてください。主イエス・キリストの名によってお願い致します。 アーメン。」
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)